さようならの先に
14
 
 
 
固まったままでいた。思いは、断ち切れないあちらへ飛び、わたしをうつろにさせる。
風呂を借り、知らない人の服を着て、食事をした。ぎっしりと日付の詰まったカレンダーも目にした。頭で理解しながら、自分の今いる世界をそれでも受け入れられない。
嫌。
嫌だ。
どうしても嫌。
終わってしまったなんて、思えない。とても信じられない。昨晩の、別れ際のガイの言葉が頭に甦る。「迎えに行くから」。彼はそう言ってくれた。まだ生々しいそれを、わたしは無意識に心に反芻した。
彼の声に引きずられるように、昨日のことが思い出される。それは悪戯めいた二人だけの秘密だ。いつものなじんだ書斎の気にも留めない扉の一つ、その奥でわたしたちは抱き合った。普段のガイにもわたしにもおよそ似つかわしくない、馬鹿げた振る舞いだった。
そう、扉の外からハリスの声が聞こえ、知られてしまうのではと、肝を冷やしたのも思い出した。
あれが、最後…?
とびきりのエピソードを残して、終わってしまうのだろうか。わたしの彼との日々は、もう消えてしまったのだろうか。
そう考えるだけで、息が苦しくなる。激しい切なさに、胸の中の大事な部分がちぎり取られていくようだった。痛いと思った。壮絶な痛みに、わたしは胸を手で押さえた。
そのときだ。
声が聞こえた。耳に聞こえるのではなく、感じられるのだ。直接、それはわたしの心に届いてくる。
ふと、手のひらの中に納まったままの懐中時計を見た。ほんのかすか、光を放っているようにも見える。わたしは目を見開き、蓋を開ける。蓋の裏の鏡を凝視した。しかし、そこには何も映らない。曇った鏡があるばかりだ。
 
『ユラ』
 
今度は、はっきりと聞こえた。やはり声は頭に心地よく響き、届けられる。それはガイの声だった。
 
『ねえ、僕を覚えていて。忘れないで』
 
「ええ、ええ!」
わたしは声に、返した。ありったけの思いを込めて、彼に届くように返すのだ。
聞こえるのかわからない。しかし、わたしはこのとき、遠い彼とつながる見えない糸を信じた。目に映らなくとも、それはわたしにきっと差し伸べられて、ある。
 
『迎えに行くから』
 
嬉しかった。欲しかった声が、しっかりとわたしに届く。それは心に触れ、頭の中で確信と揺らがない納得に変わるのだ。
だって、わたしはあなたのものなのだもの。どこにも、行かない。
 
『だから、覚えていて、僕を』
 
わたしは彼への言葉を、口づけた懐中時計に囁いた。
「待っているわ。あなたが来てくれるのを」
頬を涙が伝った。温かなそれを流れるままにして、わたしは微笑んだ。彼を思い、待つのだ。それが、今のわたしにできる全て。どうしてだろう、おぼろげな約束に疑いは起こらなかった。それほどにガイの声はわたしを安らがせてくれる。
いつだって、どこにいたって。
 
『ねえ、お嬢さん』
 
頭を振った。前とは違う。全てが、何もかも違う。
衣装のポケットに入れたハンカチで、涙をぬぐった。どれほどの間、こちらにいることになるのかはわからない。懐中時計はわたしが持っているし、その鏡には、何も映ってはいない。わからないことだらけだ。
けれど、強くあろうと願った。以前こちらに渡ったときの自分の弱さを、わたしは今も悔やむが、どこかで納得もしている。あのときのわたしは、自己愛に絡めとられても、どのようでありながらも、懸命だった。決して好きではないが、あの過去を否定はしない。
だって、それもわたしなのだ。
それら全ての先に、今のわたしがある。
ガイが昨晩話した言葉の全てが、ふと、すとんと腑に落ちた気がした。理屈ではなく、こだわりもなく、受け入れられた。そう思う。
何を選択しても、どう迷っても。
その果てに、彼に辿り着けたのだ。それは、わたしが芯から彼を求めているからだろう。だから、いいのだ。
これは、わたしの中に新たに宿った信念なのかもしれない。
どれほど心が揺らいでも、悲しみに塞いでも。
必ず、あなたに辿り着くから。
 
 
程なく、わたしは身体を起こした。先ほどのテレビの部屋の窓を開け放ち、空気を入れ替えた。台所の隅に箒とちり取りがあり、それを借りて掃除を始めた。
以前のときも、帰ったわたしは身の回りを意地になって掃除していたような気がした。思いつくことは同じだ、とおかしくなった。
そこへ、相馬さんが帰ってきた。手にビニール袋を提げていた。買い物に寄ったのかと思ったら、「もらいものだよ」と言う。
普段から、もらいものが多いのだとか。一人暮らしの園長先生を気遣って、周囲があれこれと野菜などを持たせてくれるらしい。
「十日も行方不明だったから、仕方がないが、うるさくて敵わんかった」
「何て言い訳をしたんですか?」
「前に勤めていた保母さんの所へ、用で行ったことにしておいた。連絡もしないでと、やいのやいの言われたが、適当にごまかした。そう、取りあえず、あんたはその保母さんの娘ということになっているから、合わせてほしい」
「はい」
わたしは頷いた。様子をうかがう相馬さんへ、先ほどのガイの声の話をした。「夢みたいだけど」、話の途中で何度かそう挿んだ。
最後まで聞き、彼は、「それは、よかったな」と笑ってくれた。わたしの頭に手を置き、ぽんとごく軽く叩く。
「お互い長い夢を見た同士だ。信じるよ、わたしは」
「はい」
改めて、ガイの迎えの来る間、居候させてもらいたいと口にした。出来ることはするし、仕事があればやりたいと言った。頭を下げるわたしに、
「当たり前じゃないか。まあ、爺の独り身で、ご覧のようなせせこましい暮らしだ。何にもしてやれんが、好きにしてくれて構わない」
「ありがとうございます」
お昼に帰って来た彼へ、わたしが昼食を作ることを申し出た。大抵いつも、昼は園から近いこの家に帰って済ますという。米を炊きおにぎりにし、せっかくのもらい物の野菜で揚げ浸しを作った。
「あんた、料理が上手いな」
感心した声が照れ臭い。上手いなどと意識することはなかった。必要だからと、当たり前の日常で済ましてきたことで、ただ苦に思ったことはないのではないか。それだけだ。人の得手不得手は、もしかしたら、そんなことで決まるものなのかもしれない。
「ずっと、父と二人だったから、家のことはわたしがしていました。それだけですよ」
「あっちの邸もぴしっとしていたし、大した内助の功だな」
「邸は、わたしが来る前からぴしっとしていましたよ。わたしが来て、却って緩んだくらい。ガイがそう言っていました」
「その加減があんたの手腕だろうが。あの伯爵一人が馬鹿でかい邸で、堅っ苦しいだけの使用人に囲まれていたら、とんだ幽霊邸じゃないか」
彼の飾らない言葉に、最初、迷うほど広いあの邸に戸惑ったことが、つんと鼻の奥に匂うように思い出された。そうだ、この彼とわたしはある思い出を共有している。それは独りよがりであろうが、強い親しさを感じさせる。
「そうだ。飯の後で、あんた買い物に行ってきなさい。服だとか要るものを買って来たらいい」
そう言い、相馬さんはわたしへ一万円札を三枚差し出した。とっさに固辞したが、断れないのだ。わたしは何も持っていない。
頭を下げ、それを受け取った。「残りはお返しします」
「いや、使こともあるだろう。取っておきなさい」
再び頭を下げ、頂いたそれを、わたしワンピースのポケットにしまった。
出来上がった料理を、テレビの部屋のテーブルに並べていると、玄関の開く音がした。思い切った開け方で、慣れた人のものに聞こえた。わたしはふと相馬さんを見る。彼はちょっと頷いて、構うことはないと言うように、箸を置くことはしなかった。
すぐに足音が聞こえ、近づくそれはわたしたちのいる部屋に迫って来る。ほどなく、背後に人の気配がして、わたしは振り返った。




             

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