さようならの先に
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「父さん、帰ってたのか。連絡ぐらいしてくれよ」
声は苛立ちに、安心した色が混じる。「父さん」の呼び名がなくても、相馬さんの息子だと気づいたはずだ。廊下の男性は、上着こそないがワイシャツを着て、仕事の途中に顔を出した、といった様子だ。
わたしをじろりと見たその視線は、検めるという表現そのもので厳しかった。背が高く、しっかりとした身体つきをしている。それがごく近くにあるのは威嚇的で、わたしは身をすくませた。
相馬さんは、彼へ手で制し座るように言った。わたしを、「杉本さんの娘さんだ。お前も覚えているだろ」
「え」
息子さんは座りながら、わたしをまた見る。その目は「杉本さんの娘さん」の効果でか、柔らかくなった。目鼻の整った顔立ちで、少し焼けている。歳は三十台のどの辺りか…。
わたしから目を放さず、「杉本先生と全然似てないじゃないか」と、相馬さんへ手を横と縦に示して見せている。以前、相馬さんの園にいた杉本さんは、わたしより背格好の大きな女性だったのだろう。
「旦那さんに似たんだよ、この子は」
相馬さんはわたしを見ながら、ちょっと面白そうに言う。そう言ってから、息子さんへ食事を勧めた。わたしがその声に立ち、隣りから彼の器を持って戻るまでに、親子では、わたしがこの家にしばらく住むことになった理由を話していた。
娘が家を離れることを、「家庭の問題」と相馬さんは話したが、聞いた相手は片膝を立て、
「娘が家にいちゃまずい家庭の事情って、何だよ」
「勘繰るな。人の家庭には色々あるんだ。それをわたしは相談に乗りに行ってたんだ」
「ふうん」
わたしが差し出した皿と箸を、息子さんは「ありがとう」と受け取り、大皿のおにぎりを取り頬張った。食べつつ、「連絡ぐらい入れてくれよ。親父が出てこない。家も留守のようだって、園から電話が来て、こっちはびっくりするだろ」
「急なことでな」
相馬さんは、息子さんを紹介してくれた。聡見(さとみ)さんという。結婚し実家を出ているといった。前に、相馬さんは息子さんを当てにならないと首を振っていたが、見る限り、その不満がわからないきちんとした男性である。
「あんた、名前は?」
不意に問われて、驚いた。返事が遅れると、相馬さんが彼を叱った。
「そんな訊き方があるか。初対面のお嬢さんに」
「じゃあ何て訊けばいいんだ? 普通の女の子じゃないか」
「お前なんかが口の利けない、偉いお嬢さんかもしれんじゃないか」
聡見さんが失笑するのを見て、わたしは「由良です」と答えた。「しばらくご厄介になります」
「年は?」
「え、…二十、四歳です」
「じゃあ、働いていたのか? 学生って感じでもないな」
「杉本さんの舅さんが悪くて、それであの先生もうちを辞めて、旦那さんの実家に帰っただろ。その介護を母親と一緒にやっていたんだよ。舅さんは今ホームに入ることになって、手が空いたんだ」
筋は考えてあったらしく、相馬さんの説明はよどみがない。聡見さんは納得したのかそうでないのか、わからないが、とりあえず頷いてくれた。
食事が済むと、仕事に戻ると立ち上がる。
「ありがとう、旨かった。ごちそうさん」
とわたしに言う。はっきりものを言うタイプらしい。父一人が住む実家に、見知らぬ若い女がいれば、あれこれ問いたくなる。
「うるさいのが来て、すまなかった。気を悪くしなかったか?」
「いいえ、少しも。訊かれたことは、当たり前のことばかりですし」
片付けを始めるわたしへ、相馬さんは聡見さんのことを少し話した。三十五歳になること、この県下ではトップの大企業に役付きで勤めているという。
「優秀な息子さんですね」
そう返したが、相手は嬉しそうでもない。自慢をするつもりではなく、淡々と事実を話したに過ぎない、そんな様子だった。
「聡見は、嫁に見初められて婿に入ったんだ。あの企業の社長令嬢で、相手が云々より、婿として出世が約束されていることに色気を感じて、飛びついた結婚だったよ」
相槌が打ち辛い話だった。相馬さんは息子のその決断を面白く思っていないのが、声からわかった。
しかし、そういう理由で結婚を決める人だって、性別を問わず多いだろう。当人たちが満足であれば、一概に悪い判断でもない。そう思った。
わたしは相馬さんを見て、頷くに留めた。
「五年も経つが、そろそろ形見も狭くなってきたのかな。ここ一二年は、よく顔を見せるようになった」
「…お父さん孝行なんですね」
「どうだか。家が面白くないんだろう」
決めつける声が不穏で、父として息子の生活に何か不安を持っている様子がうかがえた。やはり返事をしかねて、わたしは懸命に皿を洗った。
 
 
相馬さんが渡してくれたお金で、わたしは服を買った。記憶にあるファストファッションチェーンの店が近在にあり、そこで下着と着替えを数枚買った。最低限の数だ。
今回、どれほどの滞在になるかは全く分からない。不安と焦りはゼロではないが、不思議と落ち着いた気分でいられた。
その気持ちの根拠には、懐中時計を通して届くガイの声がある。あの声がわたしに届けられるということは、彼とのつながりが途絶えていない証しに思えた。
そして、前回の経験がある。あのときの思い出は、今も胸に痛く残るが、どれだけ苦しんだ日々であっても、わたしはあの後ガイの元へ帰ることができている。その経験が、漠然とながらもわたしに妙な安心感を与えているのだ。
三日ほど、静かに過ごした。食事を作ったり辺りを掃除し洗濯などをこなす。しかし退屈で、時間を持て余した。ふと思いついて、わたしは相馬さんの経営する保育園に足を延ばした。ごく近所で、家事の後の散歩の延長だった。
広めの園庭がある、二階建ての建物だった。コンクリートの外壁の傷みが見えるが、周辺はよく手入れされている。金網のフェンスをめぐらせた場所から、水遊びをする子供たちを眺めた。
カラフルな水着を着た幼児が、水しぶきを立て楽しそうにしている。目の上に手をかざし、それを見ながら、自然にノアを思い出す。あの子に触れていない日々が思い出され、胸が切なく痛んだ。
そのとき呼ばれ、わたしは現実に引き戻された。「由良さん」と呼ぶ声は女性のもので、声を探せば、園庭からわたしへ手招きする人がある。園の先生だろう。
「入って来て」




             

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