さようならの先に
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風呂に入り、上がって出て来ると、まだ聡見さんがいた。子供に冷えたお茶を与えていると、玄関の扉が開く音がした。
それに、相馬さんが出て行く。女性の声がする。子供の母親だろう。わたしも行こうとして、聡見さんが腕を引いた。「止めとけ」と言う。
「女の子がぬれた髪をして人前に出るな」
「え」
「ややこしい相手かもしれないだろ。親父に任せとけ。あれでも、長いこと子供の親の相手をして食ってるんだ」
ほどなく、相馬さんが子供を呼んだ。「こうちゃん、ママ来たよ」と声をかけると、子供は立ち、そのまま玄関へ向かった。
ほぼ子供と入れ替わるように、相馬さんが戻ってきた。聡見さんが母親の様子を訊ねた。若い母親だという。
「急な残業で、申し訳なかったと謝ってた」
勤め先は「もう帰った」と電話口で告げたはずだ。すぐにそう思ったが、口にしなかった。相馬さんもその嘘について、何も言わない。ただ、聡見だけが、
「まあ、しれっとよくそんな嘘をつくな。浅はかなのか図々しいのか。どんな女だ」
責められても仕方のない行為だ。世の男性は、子供を持つ女性に対しての大方このようなまなざしなのだろう、と受け入れられはした。しかし、手厳しい意見に、わたしはちょっと苦笑した。
「子供は一人じゃ産めないぞ」
「成人してるんだろ? 産むのを決めたのも、引き取るのを決めたのも、その女の側だろ。責任が発生するときだけ、大人であることを逃げるのはおかしいじゃないか」
理詰めな聡見さんのそれに、相馬さんは乗らず、手で払うようにして、「お前はもう嫁さんのところに帰れ」と言う。
すんなりと聡見さんは従った。子供の親が引き取りに来るのを待っていたかのようだと思った。「ややこしい相手」であった場合に備え、父親を助けるつもりであったのではないかと、すぐに感じた。
彼が帰り、静かになった部屋で、相馬さんがちょっと嘆息した。声を促すつもりで、見つめる。
「酒の匂いがしたな、あの母親は」
弱ったな、と言うように軽く顔を振る。聡見さんの前でもらさなかったのは、うるさいからだろう。
「それは…」
「大人だからな、そんな自由もある。働いて、一人で子供を見てれば、そんな日もあるだろう…」
相馬さんは気性からか、経験や年齢からか、聡見さんの意見よりもそこに遊びが多い。それをわたしは嬉しく感じた。
「こうちゃん、どうでした?」
「嬉しそうに帰って行ったよ」
「よかった」
そう答え、胸が疼いた。子供を風呂に入れその肌に触れて、わたしはノアが恋しくなったのだ。抱けずにいる時間が切なかった。
 
 
その日は、帰りにスーパーにも夜つもりで出掛けてきた。大きな駅の裏口だから、迷わずに図書館に着けた。
日曜の図書館は、児童書のコーナーがにぎわっている。大人向けの書籍の方も、人の姿がよく見えた。カウンターで目的の場を訊き、向かった。順番があり少し待たされたが、じき、番が回ってきた。
三台のパソコンコーナーがあり、無料で利用できるようになっている。わたしは空いた席に着き、灯ったモニター画面を前に少しだけ迷う。
調べたいことは、頭に箇条書きにあった。わたしがこの世界から消えた夜の自宅の家事の件だ。延焼がなかったのかも、気にかかっていた。
たどたどしく、キーボードに指を這わす。自宅住所と火事の語句で、すぐに記事がヒットする。トップのそれをクリックし、ページを開いた。どこかの新聞記事のウェブ版のようだった。
読みながら、知らず唇に指を置いていた。わたしの妙な体質で、少しの緊張でも指先は冷たい。
『酷暑の夜に火炎瓶の放火』と、タイトルがあった。わたしの感じる時間より長い過去の出来事で、一昨年死亡した男性の自宅に火炎瓶を投げ入れた放火事件が起こったとしている。近所の通報により消防車が駆けつけ、火は建物を一件焼くのみで鎮火したとある。
男性の娘としてわたしの名が載り、焼け跡に遺体もなく、その行方がわからないとしていた。容疑者として叔母の名が挙がっているが、この記事では犯人に特定はされていない。
一端戻り、別の記事を見る。そこには『真夏の夜のミステリー』とうたい、消えた資産家令嬢の行方を悲劇的に綴ってあった。
『…邸には一人娘の由良さんが住んでいたことが確認されている。放火のあった夜も、家に灯の灯るのを近所の人が見ているし、確かにその時刻に彼女はいたはずである。しかし、叔母により、火炎瓶が投げ入れられ火事が起こったのち、その姿は消失していた…』
あの叔母が犯人に決まったのだ、とわたしは今頃事件の顛末に納得していた。自分はあの夜から、こちらに別れを告げ、文字通り別世界で別の人間になった。あの叔母に憤りもなく、ぼんやりと、刑務所に入っているのか、とちらりと思った。
いつかあちらではわたしは女子刑務所で大きな失態をしている。ガイに多大な迷惑と恥をかかせ、いたたまれない思いをしたことが甦った。その記憶から、怒りはないが、叔母の様子をそういった場に見舞うという気持ちは、起こらなかった。
見舞う、と言うのはおかしのかもしれない。面会とかいうのかもしれない。消えたはずのわたしが、こちらの時間の経過では六年以上の時を経て、ふらりとあんな場所に現れなどしたら、厄介なことにもなりそうだ。
『資産家令嬢』と華やかに書かれているが、あの頃には家の他は、資産など残らずむしり盗られていた。人の大きな助力を得て家だけが残り、その中で一人、わたしは死にかけた虫のようにして生きていた。
先をめぐらせる気力も夢もなく、ただ消えてしまいたいとうなだれていたのだ。消える勇気さえ持てずに…。
事件のあらましを知り、それからわたしは自分の名前を検索した。やはり先に読んだのと同じようなものが上がって来る。
他は知りたいこともない。待つ人もあるから、立ち上がり場を譲った。時間を持て余す身だ。涼しい図書館の中でしばらく過ごした。女性向けの雑誌を何となく手に取り、椅子に掛け眺めた。
短いスカート、脚に沿う形のパンツ…。肌の露出が大胆なそれらを、遠いものとして目で辿る。ただ、生地の柄などが新鮮で、そのような刺繍を次に作るドレスにあしらえたらいいかもしれない、などと楽しく夢想した。
髪のまとめ方なども可愛く、何となく垂らしている今の自分の髪に触れた。誌面のヘアアレンジを真似るように片手でいじってみる。
そこで声が掛かった。
「何だ、そういうの、ちゃんと興味あるのか」
背後からの声に、ぎょっとしてわたしは顔を上げた。すぐに振り返る。後ろにいるのは聡見さんだった。今の滞在で、わたしに声をかけるような知り合いなどごく少ない。その中の一人である彼でおかしくはないのだ。
それでも、こんな場で見つかるのが不思議だった。この日彼はいつもの仕事帰りの格好ではなく、半袖のシャツにジーンズで、少し印象が違った。
どうしたのかを問えば、「親父にこの場所を訊いた」と言う。出掛けるとき、庭の雑草をむしる相馬さんに告げて来てある。
「どうしたんですか?」
それでもまだ、彼がここにいる理由が埋まらない。わたしが訝し気な表情をしたのだろう。聡見さんは少し訊きたいことがある、と言った。
「何か奢るよ、出ないか?」
そう促した。断る理由もない。雑誌を戻し、わたしは彼について、図書館を出た。




             

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