さようならの先に
3
 
 
 
満月の夜までの間、わたしは新たな客をもてなすために、忙しかった。部屋を決め、その掃除や設えを整えさせ、衣装などの準備をする。体格がわからず、密かに執事のハリスをモデルに、紳士ものを幾つも用意させた。
とにかく、不足がないように気を配った。
その周到さは、何も持たない人へのものに映る。そういった支度の整った邸に、急に現れる女主人の縁者だという人物を、アトウッド夫人を始め、使用人たちが妙に思わないかが気にかかった。
「旅行の途中、お気の毒に荷物を紛失してしまったと連絡があったの」
余計な言い訳を口にし、遠来よりの「父方の叔父」を心待ちにする姪を演じた。アトウッド夫人はわたしの言葉に頷き、
「それはとんだ災難でございましたわね。奥さまのご配慮は当然のご親切でございますよ」
「ありがとう」
わたしの誤魔化しに、信憑性があるのかないのか。わからないが、それでも知らん振りで物事を進めた。こちらの生活も長くなり、人目を気にしながらも、意志を通すコツのようなものをわたしは見つけていた。それは、とにかく無邪気に押し通すことだと感じている。
ノアの乳母をこれまでに二人も替えた件にも、わたしはそのやり方で臨んだ。腹立ちを隠し、驚いた振りで、「まあ、どうしましょう」、「そうだとは思わなかったの」、「誤解があって、申し訳なく思うわ」…。あどけなくそんな言葉を並べ、隙ができれば、自分の思いを押し込むのだ。
ガイはわたしのそんな妙な独り芝居をどう思うのか。訊いたことはないが、知りたくもない。
何度も確認し、当日になってまで、何か足りない用意があるのではないかと気を揉んだ。ノアの様子を見て、献立表を眺めれば、もう夕刻に近い。外を見れば冷たい雨が降っている。こんな雨にも月は現れるのだろうか。雲間に影っていてもあの列車は走ってくれるのだろうか。
何となく緊張し、夕食の後で書斎にノアを連れてきてもらった。子は床に座り、のっそりとやってきた猫のシンガポアに喜んで笑う。その傍にわたしも座り、ノアがシンガの背に触れる手に自分のを重ねた。
ガイは少し離れて、マントルピースの横に立ち、煙草をくわえている。ノアを見ているのか少し笑っている。自然に寛いでいるようだった。もうじきあの列車に乗るというのに、彼にはその硬さがまるでない。わたしとは違い、幾度も異なる時空を行き来し、人を伴ったその経験からか。
わたしと目が合った。彼はわたしにごく軽く首を振って見せる。すぐにその意味が取れなかった。
「僕は、あなたがノアとそうしているのを見るのが、とても好きなんですよ。何だか満ち足りた気分になる」
「え」
「僕には僕の役目がある。あなたのそれは、ここでノアとそんな風に一緒にいることです」
その言葉に、彼が、わたしがあの鏡に映った人物を迎えに行くことに、今も未練を持っていると思っていると知った。ないと言えば嘘になる。けれど、あきらめたのだ。
ガイがやんわり無理だと言うのなら、わたしには向かない仕事なのだ。そして、彼がここに子と一緒にいてほしいと望むのなら、間違いなくそれはわたしの役目である。
「わかっているわ」
「そう、ありがとう。あなたが聞き分けよくしてくれて嬉しい。これで僕も心のつかえがとれました」
「え、なあに?」
「あなたに、僕のことで機嫌を損ねたままでいてほしくない」
ガイは、わたしがあの日から彼に少し冷たかったのだと、ちょっと愚痴をこぼした。慌てて首を振る。願いが叶わず気持ちは沈んだが、それで彼に八つ当たりなどしたつもりはない。しかし、自覚はなくても顔や態度に現れたのかもしれない。わたしは頬に手を当て、彼へ詫びた。
「でも、わたし、本当にそんなつもりなかったの。今日の準備に夢中で…」
「わかっていますよ」
ガイは暖炉に煙草を投げ入れると、こちらに来た。わたしとノアの傍に屈む。それでシンガがするりと逃げた。彼はわたしの顎に指を置き、少し上向かせた。そのまま口づける。
「…冗談だから」
「あ」
おかしがる表情の彼に、わたしは顔を背けてふくれた。からかってばかり。面白がって、意地悪なガイ。
「申し訳ない、お嬢さん」
頬を張らせたわたしへ彼が言う。これから迎えに行く人物が、わたしの父以上の年齢であることにほっとしていると。
「若い男なら、僕はやれやれと気が滅入ったでしょう。あなたは優しいから、相手に共感して、同情より上のものを感じてしまうかもしれない」
意味はわかったが、返事をしなかった。おかしなことを言って、わたしの反応を楽しむ意図がよくわかるからだ。「どうしたの?」。彼はわたしを見つめる。
「だって…」
「これは本当」
ガイは指でわたしの唇の端をちょっとたどった。傍らのノアの頭をぐるりとなぜてやり、そのまま立ち上がる。
「では、行ってきます」
 
 
いつしか雨は上がっていた。
わたしは寝室に下がった後も、衣装を解かずに待った。バルコニーの側のガラス窓は、カーテンを大きく引いてある。そのため、月明かりがありありと射し込んでくる。
時折雲に隠れる月は、真円に近い満月で、やや黄みを帯びて光っていた。月が主人公のように輝く夜空を、わたしは何度も確かめた。華奢なネックレスのようにそこにうねる列車の存在を。
ガイが出かけて、もう随分と経った。時計は午前三時半を過ぎた。朝になるのだろうか。わたしのときは、いずれも朝靄の中駅舎を歩いた記憶がある。
まだ早い時刻に一度、ノアを見に行った。もうさすがに行くのはためらわれた。あの子も乳母のハリエットも眠っている。編み物に目を落とし、小さな靴下を編みながら、気持ちはそのクリーム色の網目ではなく、やはり夜空へ飛んでいる。
四時少し前に、あくびがまたもれた。ガイは眠っているように言った。けれども、早朝に彼らが着いたとき、起きた使用人のほとんどいない邸で、わたしの手が必要になるかもしれない。そう思えば、目が冴えた。
かすかに馬車の音を聞いたのは、程なくだ。わたしはバルコニーに出て、馬車がアプローチへ走り来るのを見た。車寄せに泊まるまでを待たず、部屋に戻る。軽く髪を整え、寝室を出た。静まり返った邸を、小走りに廊下を駆けた。
わたしが玄関に辿り着くのと同時に、若い従僕の一人が灯りを持ち、ノッカーの音にやって来たところだった。衣裳が整っていない。急いで起き出してきたのだろう。まだ少し眠れる時間なのだ。わたしは彼から灯りを受け取った。
「どうぞ、お願い休んで。旦那さまはわたしがお迎えしますから、大丈夫よ」
従僕は驚いた様子だが、「お願いします」と繰り返せば、礼をして戻って行った。彼が使用人部屋の方へ消えるのを待ち、固い錠の掛かったドアを開けた。思えば、この扉をわたしが開けたことはない。
扉の向こうに、ガイの姿があった。その側に、ガイのものらしい外套を羽織った小柄な男性が一人立っている。気の毒なほどにきょろきょろと視線を泳がせ、うろたえているのがわかった。
馬車は邸のそれではない。駅にたむろする駅馬車を使ったようだ。客が降り立ち、この扉が開くのを確認したら、来た道を戻っていく。この時間に門番小屋に人はいないから、ガイが自ら開けたのだろう。きっとそれは開け放したままで、箱を空にした馬車はそのまま出て行くのだ。
「お帰りなさい」
わたしは二人を招じ入れた。ガイが背の扉を閉めた。わたしが出迎えたことに、彼は驚きを隠せないでいる。しかしそれを口にしないまま、訪れた人を気遣った。
「さあ、お疲れでしょう。着きましたから、楽にして下さい」
「お嬢さん、それを」と、わたしの手から灯りを受け取った。わたしはガイが背から、より高い位置で周囲を照らすのを頼りに、客を用意した部屋へ促した。
寝室や客間は二階にある。その一室をあてがってあった。暖炉に火が入ったままで、いつでも休めるようにしてあった。もし湯を使いたいのであれば、すぐにもバスの用意もできる。
「先ほども言いましたが、彼女が妻です。僕はお嬢さんとよく呼ぶが、名はユラといいます。あなたがその名で呼んでも、きっと喜ぶと思いますよ」
男性は返事もせずに、わたしを見た。そのとき眼鏡越しの目が合う。黒い瞳、髪…。自分との相似を見たのだ。目が見開いた。
「はじめまして、ユラです…」
「あんたは…、その…」
わたしはそこでガイを見た。彼はわたしへの疑問を引き継ぎ、
「お察しの通りですよ。お嬢さんとはきっと話が合うでしょうが、のちにしましょう。よく眠るのが先でしょうから」
部屋は明るく、美しく整っていた。お茶の支度もあったが、彼はそれを断った。ひどく疲れているように見えた。外套の下はやはりパジャマで、往時の自分を思い出す。
ベッドに入るよう勧め、傍らのチェストの灯りを絞った。ふとガイを見、ちょっとその腕に触れた。彼は軽く頷く。
「ゆっくりなさって下さい。お食事の頃にわたしがまた伺いますから」
瞬きばかりでろくに返しもない。当たり前の反応に、わたしもガイもただ親切を務め、部屋を出た。
ガイはわたしの手を握った。わたしも彼に身を傾げながら、そのまま寝室に戻る。
暖かな部屋では、普段のように化粧室に着替えに行かず、ガイはあくびをしながらそのまま衣装を脱いだ。長椅子に放ったそれを持ち、わたしは化粧室へ行った。ガウンを取って戻った。
ガイに渡せば、「ありがとう」と受け取り、肌に纏ってひもを緩く結んだ。眠っておらず疲れているのがわかった。寝台に腰を下ろし、また大きなあくびをしている。
「ガイも休んで」
わたしも眠らなくては。明日があるのだ。あくびを噛み殺し、化粧室へ着替えに行こうと背を向けると、彼が後ろから抱きしめた。
「僕がしてあげる」
「…ガイはわからないでしょ」
「そうでもない」
彼の指がわたしの衣装のホックを外す。あ、と言う間にドレスが床に落ちた。拾おうと身を屈めれば、「放っておきなさい」と彼が指を休めずにコルセットを解いた。
「さあ、いらっしゃい」
抱き上げられ、寝台に横になる。夜着も纏わず、恥ずかしい。数時間後、ここにお茶を持って現れるアリスの目にどう映るかも、悩ましかった。しかし、しばらく続いた緊張の果てに、こうして互いにしどけないなりで共に横になるのは至福と言えた。
灯りを落とした彼の腕が、わたしに回った。抱き寄せられる。その腕のぬくもりの中で目を閉じた。会話もない。次の瞬間には、もう眠りに落ちていた。




             

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