さようならの先に
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何を言う権利もない。そんなことを強く自覚し、彼の実家帰りを茶化す気持ちはもう萎えた。
ふと外を、小さな子が両親に手を引かれ歩く姿が目に入る。ほんの言葉の接ぎ穂のつもりだった。
「聡見さん、お子さんは?」
「いや、いないよ」
多分、妻とは作ることはないだろう、そんなつぶやきが続いた。彼の声は低く味気のないものだった。夫婦間の温度が想像つくような素っ気なさだ。
何を言う権利もないと自制したのに、と臍を噛む。
「ごめんなさい、プライベートなことなのに…」
「俺の実家に親父と住むのだって、十分プライベートだろ。そこにどっぷり浸ってんだから、子供の話くらい気にするな」
「…そうですね」
「妻が欲しがらない。一昨年くらいまではそんな計画もしていたのに、今じゃその気もないらしい。学生時代の友人と旅行だ何だの、気晴らしばかりだ」
何の気晴らしなのやらな、と自嘲気味の声がぼやく。告白の渋さを味わいながら、この人が実家に来る訳の理由の、幾つかが埋まった気がする。
「重い話だな、ごめん」
「いえ、わたしの方こそ…」
親しくもない、わたしのような相手だからこそ、言い捨てのできる気安さがあるのだろう。それはわかるように思う。
その後は、数日前に相馬さんが連れて来た、こうちゃんの話をしたり、彼がわたしへ質問をしたりがしばらく続いた。
カフェラテも飲み終り、わたしはそろそろ席を立ちたくなった。夕飯の買物もあるし、一人でさっき調べたことなどを考えてみたいのだ。
「あの…、そろそろ、いいですか?」
「ああ。帰るか? いいよ。つき合わせて、悪かったな」
カフェの前で聡見さんにお茶の礼を言い、別れた。
商店街のひさしの下、日陰を選び歩く。暑さを感じながら、前にこっちに来た際も、同じく夏を体験したと思い返した。記憶をふるうように選り分け、気の滅入るものは意識の外に置く。
ニュース記事の内容を頭でたどり、自分は何もかも失くしてしまっているのだと、今更に実感した。この世界には、わたしは何もない。
家もなく、血のつながりのある人たちとも途切れ、「行方不明」とされている人間だった。名前さえない。関わりのあった人の薄い記憶の中にしか、きっとわたしはもういない。
ここには、過去があるのみだ。
そんな事実にぶち当たり、その過去の中で実体のない自分が、ゆらゆらと意味なく生きているのを感じた。
帰りたい、と。切実に思う。
胸につんとつき上げるその感情は、思いがけず強い。眩暈のようなそれを、歩道の隅で少しだけしゃがむことでやり過ごそうとした。
「ちょっと、具合悪いの?」
日傘の老婦人が声をかけてくれた。顔を色悪く見えるのか。わたしはつばの広い帽子の下で、頭を振った。「大丈夫です、少し、立ちくらみが…」
そう返したとき、肩に手のひらを感じた。その強さにぎょっとなる。その人がわたしの側に屈み、顔をのぞき込む。背に日を受け影ができ、すぐに誰であるかわからなかった。
ちょっと遅れて、それがさっき別れた聡見さんだと気づく。
振り返ったら、わたしがしゃがみ込んでいたから、驚いたと言う。追いかけて来てくれたのだ。
「大丈夫か?」
「…はい」
ガードレールに手を置き立ち上がる。もう片方の手を聡見さんがつかんだ。強い力で引き上げてくれる。「知った子なんです、ありがとうございました」。彼が残る老婦人に礼を言った。わたしも頭を下げた。
「ごめんなさい。もう大丈夫です」
「死人みたいな顔色だぞ」
「元々、血の気が薄い質なんです」
「そんな感じだな」
もう平気だと繰り返すわたしを、聡見さんはじろりと見、「まっすぐ帰るのか?」
「スーパーに寄ろうと思って。夕飯の買い物です」
「一緒に行くよ」
「え」
「そんな迷惑そうな顔をするな。残業を頼んだときのうちの女子社員みたいだぞ」
「そりゃあ、嫌でしょうね」
「何で? 上司だぞ」
そう問いながら、既にわたしを先に促している。さりげなく、でも押しが強いのだ。部下の女子社員にもこうなのだろう。
「こき使われそうで」
「俺みたいなのに慣れておくと、結婚後も楽だぞ。旦那が少々傲慢でも、免疫がつくだろ」
おかしくなって笑った。
ふと、ガイの面影を思い出す。彼もある意味傲慢だった。とても紳士的で優しい。しかし、慇懃な物腰と言葉の内側で、譲らないと決めた部分は、決して妥協がないのだ。
『ねえ、お嬢さん、あなたもそうだと僕は嬉しい』。『どちらでも。お好きな方をどうぞ。でも、あなたがいずれを選ぶかを、僕はもう知っている気がしますよ』…。
わたしが必ず従うと知っている、あの強引さ。わたしにはもう慣れたそれを、相馬さんは夫婦として「対等に見えない」と指摘した。当たり前。端から対等でなどないのだから。
少し先に歩む彼が、わたしへ手のひらを伸べてくれる。その手にわたしは、自分自身をすっかり委ねているのだ。
その事実は、わたしを惨めになどしない。傍目には、愚かに見えるのかもしれないが、それをガイが望むのなら、わたしは愚かな女でいいのだ。
「…どうした? 夢見るみたいな顔をして」
「え」
その声に我に返る。わたしはひとときの夢想から醒めた。聡見さんを目では見ながら、彼が言った言葉を通して、別な記憶の目でガイを見ていた。
頬に血が上った。恥ずかしかった。人の顔を見ながら、白昼夢を見るなんて…。
わたしは顔を背け、うつむいた。
「俺の顔に照れたのか?」
ふき出した。おかしかった。「笑うことないだろ。もてない方じゃないぞ」
「でしょうね」
言葉が途切れ、しばらくのち、聡見さんが何を買うんだと訊く。卵と牛乳と…、わたしは考えながら答えた。
「献立は何?」
「訊いてどうするんですか?」
「そういう言い方はないんじゃないか。単なる会話だろ」
「そうですね。いただいたまぐろがあるので漬けと、鶏のレバーはゆで卵と煮ようかと思って」
相馬さんの職業柄と人徳でか、頂き物が多い家だった。
「旨そうだな。俺も行こうかな」
わたしはくすくす笑った。「単なる会話なのに、乗るんですね」
「いいじゃないか。荷物持ちをしてやる。その駄賃だ」




             

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