さようならの先に
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お盆を前に、園では夏の一日、お泊り保育がある。夕食にはカレーライスを出し、その後保育士と有志参加の保護者が協力して、花火をして楽しむ。
こちらでの生活もふた月を越し、わたしには慣れと、ちょっとした疲れが出てきていた。日々の繰り返しに、やや倦んできていたのだ。不満があるのではない。相馬さんや園の人々には世話になり、日々を過ごさせてもらっている。
すべきことがあり、受け入れてくれる場があった。なのに、そこに満足する振りで、頑なに拒絶をするわたしがいる。
ここはわたしの意場所ではない。その思いが強く、こちらで喜びを見い出したり、何かにふけったり、ふと心に湧く充実に罪悪感があるのだ。
小さな子の仕草に本心でおかしがる。人と話し、共感し芯から頷く。ガイの側の世界では感じない、湿度のある暑さを身体全体で受け止めるとき…。
いけない。
そんな思いが、感情に歯止めをかける。幾らでも湧き上がるそれらに、気づけばわたしは抑えを掛けていた。
それは恐怖からだ。こちらの生活のこもごもをわたしが喜びをもって受け止める。それが、いつかガイが話した、わたしの意図になるのではと思うと怖かったのだ。
人の意図は、自覚しなくとも新たな可能性を作り、機会が整ったとき、人をその可能性に連れ去る。ガイはそのように話していた。そうやって、わたしは彼と巡り合い、彼もわたしを見出した…。
知らず感じる日々のきらめきに似たものに、わたしは一々振り回されているように思えた。心からそれらに反応する自分に、嫌気がさしていた。
ここは、わたしの意場所ではないのに。それでも、わたしの頭も身体も、こちらでの生活をしっかり覚えている。時間と共に慣れ、違和感も薄らぎすっとなじんでしまっている。
ここにいるべきではないのに。
常にそんな思いがわたしの中で、気持ちを苛むように存在する。毎日が辛いのではない。少しだけ、悩ましいのだ。
そして、わたしは寂しいのだろう。そう思った。
 
園児の夕食の片づけを受け持った。五人ほどの保護者と一緒にするから、程なくおしまいになる。園庭では、子供らが花火を楽しむ声が楽し気に響いていた。
五人の保護者の中に、以前のこうちゃんの母親も混じっていた。忙しい中時間を作って子供のために手伝いに来るのだから、自覚も気概もある人なのだろうと感じた。
一般に母親には若い人で、わたしとほぼ変わらない年だ。
片付けが済めば、すぐに園児は就寝時間で、わたしは保護者と一緒に園を出た。相馬さんは保育士と共にこちらに泊まる。朝にはまた、朝食の準備をわたしも手伝うことになっていた。
相馬さんの家に着き、すぐに風呂の用意をした。お湯は張らずに、シャワーで済ます。
風呂場を出て、ぬれ髪を拭きながら、何か食べないと思う。保育園では今、園児の寝た後、職員が仕出し弁当を食べながらのミーティングをしている。わたしは部外者であり、弁当をもらうのを遠慮して帰ってきたのだ。
一人分だと面倒で、どうしようか、と迷ううち、玄関で扉が開く音がする。テレビの部屋から出て廊下をのぞけば、やはりというか当然に聡見さんだった。
靴を脱ぎ、どかどかと上がって来る。育った実家なので、勝手知ったるその振る舞いは当たり前でも、ちょっとおかしい。
結婚して、そう理由もなく、こうも実家に通う男性は少ないのじゃないかと思った。
聡見さんはわたし一人なのを見て、「親父は風呂?」と訊く。わたしは首を振り、今晩は園のお泊り保育の日で、相馬さんはあちらに泊まるのだと言った。
そう告げた途端、聡見さんはわたしを睨んだ。
「一人でいるのに、何で鍵もかけないんだ」
それはうっかりしていたが、この家で鍵をかける習慣がわたしにはない。「鍵をかけたら、聡見さんが入って来られなかったでしょ」
「俺なら、チャイムを鳴らすだろ。…君はまたそんな格好して、今時鍵もかけない家に、女の子が夜に一人で、何かあったらどうするんだ」
頭ごなしに叱りつけられることが稀で、まず驚いてしまう。目をぱちくりさせ見るわたしに、彼は舌打ちし、
「どういう育ち方をしたんだ。ったく浮世離れした子だな」
がみがみとうるさいが、これで心配してくれているのがわかり、反論するのは止した。代わりに、ご飯はどうしたかを訊いた。
「食べてないよ。何かあるだろうと思って来たんだから」
当然とした言い方がおかしくて、わたしは笑った。「何がおかしい?」
「いいえ。わたしもまだなんです。一緒に食べませんか、すぐ用意しますから」
「いいのか?」
「え」
「面倒だろ、今から…」
八時半を過ぎていた。わたしは首を振る。一人分だけを適当に用意する方が面倒なのだ。そんなことを言い、立ち上がった。
冷蔵庫になすの煮物の残りと、朝作ったマカロニサラダが入っている。他、煮豚と温野菜を合わせたものを皿に盛る。ご飯は冷凍ご飯を解凍した。出来合いなので、本当に簡単だった。
「ごめんなさい、ご飯は炊いたのがなくて」
「いや、全然構わない。ありがとう」
食べながら、話した。もっとも、彼が質問をし、それにわたしが答える形だが。今日のお泊り保育の件が主だった。こうちゃんの母親が手伝いに参加していたことを告げると、ふうんと面白くなさげに応じる。
その反応が、嫌だった。なぜか少しだけ腹が立ったのだ。咀嚼しながら理由を探した。あの女性が頑張っている姿を嘲笑されたかのように感じたのかもしれない。
だとしても、それは聡見さんの自由なのに。
「…一人でとっても頑張ってる人だと思いませんか? 仕事をして、子育てして…、難しいのに。あんなに若くても、一生懸命で」
「世の母親は、みんな難しいのに一生懸命やってるだろ」
「聡見さんは、こうちゃんのお母さんに厳しいんですね」
「約束無視で、子供を放ったらかして、酒飲んでれば、誰でもそう見ないか?」
「相馬先生は、一人で子供を見ていれば、稀にそういうこともあるって…」
「ふうん」
またそこで、彼は鼻を鳴らすような返事をする。それが不快だった。「一度、間違ったらそれでお終いだなんて…。可哀そうです」
「じゃあ、受験生もそうなるな。ミスった。ヤマが外れた。可哀そうだから、再受験って、なあ、おかしくないか?」
「それは、極端な例えです。誰だって、間違うし、約束を破ってしまうこともあるでしょう?」
問いかけながら、わたしはなぜこんなことにこだわっているのだろう、と胸の奥がやや混乱している。
そんなわたしを、聡見さんはちょっと不思議そうに見る。彼にだって、おかしいのだ。それが知れて、わたしは瞳を避けた。
「あるよ。財布を忘れる。言葉を言い間違う…、色々あるだろ。でも、それが相手の信用を失わせるような場合、回復するのは難しいぞ」
「それは…」
彼の言い分はすぐに読めた。しかし、それに対しての返しが思いつかなかった。
ふと聡見さんが箸を置き、わたしの髪に触れた。指はすぐに離れるが、こんな仕草は初めてで、驚いた。
彼はちょっと笑い、まだぬれてるな、と低くつぶやく。
「俺が、由良ちゃんの風呂をのぞく。君はそれを一度の間違いだから、と快く許せるか?」
「え」
場違いでおかしなたとえ話に、わたしは頬が熱くなった。「まあ…」。思わず声が出て、頬を両手で押さえた。
聡見さんは鼻で笑い、また箸を使い始める。「とにかく、俺のことをこれまでとは違った目で見るようにならないか?」
「犯罪と一緒にしないで」
からかわれたのを感じ、わたしはややふくれた。
「幼い子供を放置するのも、同類だと思うがな。親しか、あんな小さな子は頼りがないんだ。それを裏切るのは、罪だろ」
言葉を返せなかった。こうちゃんの母親にとても同情はするが、今の聡見さんの言葉には、強い説得力があった。
ふと、あちらの世界に残したノアのことが思われた。周囲に頼りになる大人は多くあるが、母が消えてしまったのは、あの子には残酷なことだったのだろうか。
何も理解のできない赤ちゃんではある。だからこそ、日々肌を触れ合わせることが必要だったのではないか。わたしは、こんな事態を望まなかったとはいえ、自分からあの子から離れた…。
それは、きっとわたしの罪だろう。そう思った。
だから、聡見さんの言葉が身にしむのだ。少し痛いほど。
どれほどか、それをやり過ごし、
「…子供に優しいんですね」
「常識だ」
「お父さんのお仕事を継げばよかったのに。適職かも」
ほんの軽口のつもりだった。しかし、口にしてから、踏み込み過ぎたと悔やんだ。「ごめんなさい」
「いいよ、別に。若いときは、儲からない仕事をするのもつまらないと思ったし、保育園は親父のものだしな。俺は実の子じゃないから…」
「え」
思いがけない告白に、わたしはうろたえた。目がうろうろと泳ぐ。瞬時、それが聡見さんの視線と絡まった。
「親父は、本当は伯父になるんだ。母親は、その妹で…」
共通の会話などないのが、告白の理由なのかもしれない。以前、夫婦間のことをふともらしたときと同じで、言い捨てるには、わたしは都合のいい相手だろうから。
聡見さんは、実母が幼い頃病死しその後、伯父夫妻に引き取られその養子となったという。
ご飯をかき込んだ後で、
「実父は母親が弱ると、それを捨ててどこかに逃げて行った。ろくでもないな。母親はいよいよ危なくて、入院していたし、金もないし食料もない。まだ就学前だったから、知恵もないし、誰かに頼ることも浮かばない。二日食わなかった」
そんなとき、彼を尋ねて相馬さんがやって来たのだといった。駆け落ち同然に実家を飛び出した実母と、その兄である相馬さんとは長らく疎遠だったが、入院時には、実父が保証人として相馬さんの名を記入しておいたらしい。
「実母の医療費など、払う気もなかったんだろうな」
相槌の打ちにくいほどの内容で、わたしはただ黙って聞いていた。過去のわたしより恵まれた人なのだ、と感じながら。本当に窮したとき、迷わず手を差し伸べてくれる近親者があったのだ。
わたしはその近親者に売られて、殺されかけた…。
とうに捨てたはずの過去でも、こちらにいれば嫌でも振り返る機会はある。その記憶は思いがけず鮮やかで、ちょっと面食らう。
「重い話をしたな。悪い」
「…ううん」
彼の話を聞き、幼い子供に優しく、そしてその保護者に厳しい理由に触れた気がした。自分の生い立ちを重ねてしまうのだろう。それにつれて、わたしがこうちゃんの母親に同情的なことにも説明がつくように思った。
わたしもあの彼女に、ふと自分を重ねて見てしまっているのだろう、と。
この世界に置き去りにされた孤独な気持ちが、一人で子供を育てる若いあの女性に沿う気がするのだ。だから、彼女が孤独なのでも、気の毒なのでもない。ただ、一人でいる、という事実がわたしを引きつけてしまうのだと思う。
食事が済めば、聡見さんは帰ると立ち上がった。
「うまかった。ごちそうさん」
戸締りをちゃんとしろだの、早く寝ろだの、子供にでも対するようにがみがみとうるさい。頼りないわたしへのみのことであれば、おせっかいなだけの人だが、これを始終奥さんにするのであれば、やかましく感じることもあるはず。
どうなのだろうとふと思ったが、問うことは止めておいた。プライバシーに立ち入ることであるし、それほどの興味もないのだ。




             

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