さようならの先に
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お泊り保育の行事の後、園は数日を経て短い盆休みに入る。
相馬さんは近在の墓所に墓参に出掛けると言った。「あんたはどうするね?」
不意に問われ、意味がわからなかった。お墓参りに誘われたのかと思ったが、関係のないわたしを伴う訳もない。遅れて、それがわたしの墓参を指すのだと気づいた。
気づけば、感情がわっと湧き上がった。強いものではないが、ひたひたと胸を占める興味に近い。両親の、特に父の墓は葬儀とその後一度しか参っていなかったのだ。
迷うような視線を彼に向ければ、相馬さんは「好きにしたらいいが」とのみだ。しかし、その目は、お墓参りを勧めているように感じられた。
この家から、両親の墓がある場所はやや遠い。県を三つまたぐことになる。どうやって行けばいいのか、すぐには浮かばない。電車とバスを使うことになるが、その費用は、以前相馬さんからお借りしたお金で足りるだろうか、どうだろうか。
急ぐことはないのだ。各駅停車の普通列車で向かえば、そう運賃もかからないはず。
そんなことを独り決めした。時間の空いたとき(いつでも時間はあるが)、最寄りの駅に行ってみよう。そこで調べてこよう。そう決心する。
今回こちらの世界に来て、初めて計画を持ったことで、何かはしゃいだ気持になる。どうというほどもないことだが、なぜだか嬉しい。
わたしの心の様子が読めるように、相馬さんは相好を崩し、頷いた。「お金が足らんだろう。出してあげるから…」
「いえ、まだあります。大丈夫です」
「いや、何かあると困る。離れた場所なら尚のこと…」
そこで彼は言葉を切り、思いついたように、「聡見に連れて行ってもらえばいい」
とぽんと手を打つ。
園が盆休みに入るのなら、普通の会社もそのはずで、聡見さんもきっと休暇だろう。こんな私用に、申し訳ない。とても時間を割いてもらえない。
「きっと、忙しいですよ。ほら、家庭もある人だし」
「まともな家庭じゃないから、気にしなくていい」
いけないとは思いながらも、その言葉がおかしくて、わたしはふき出してしまった。固辞するが、相馬さんは引かず、「とにかく、あいつに訊いてみるから」と決めてしまった。
きっとこの人の目にも、わたしは聡見さんによく言われるように、浮世離れして見えるのだろう、と感じ入ってしまう。
盆休み前の最後の園の日に、やっぱり聡見さんは晩ご飯にやって来た。本当に、奥さんは大丈夫なのか、と心配になる。
すれ違っているようなことを聞いたが、そういうときこそ、側にいた方が夫婦のためのように思うのに。さすがに口にもできず、出来たご飯を振舞った。
相馬さんは園の締めをして帰るから、少し遅くなると言っていたが、その予定の時間を過ぎ、どうしたのかと、わたしは時計を何度も見た。
「親父に聞いたよ。墓参りに行くんだって?」
「え、ああ…」
「いいよ、休みで暇だし。連れて行ってやるよ」
気さくに言ってくれるが、わたしは首を振った。「ありがとう。でも、いいです。一人でも行けます」
「いいから、俺が連れて行く」
「でも…」
遠慮もあるが、一人でのんびりと行きたい気持ちもあるのだ。正直にそれを告げると、「邪魔なんかしないから」と取り合ってもらえない。
「親父も心配してるんだ。由良ちゃんはぼやっとしてるから」
「ぼやっと…?」
「自覚もないのか」
「そんな自覚はありません」
「とにかく、一人でうろうろして、少し日に当たったら、ふらふら倒れるような子が。周りの言うことを聞いておけ」
何か言い返そうと思った。それをする前に、玄関の戸が開く音がした。立ち上がり、廊下へ顔を出すと、相馬さんの姿の横に小さな影が見え、胸が騒いだ。またこうちゃんがいた。
明日から、盆休みだというのに。どういうことだろう。
相馬さんはわたしにちょっと頷いて、こうちゃんを中へ促した。いつか来た園長先生の家を、こうちゃんは臆せずに入って来る。
テレビの部屋で、つまみ食いをしていた聡見さんは、子供の姿にあ然とした顔をした。それから、「親父…」と、相馬さんへ視線を投げる。
「母親と連絡がつかない」
それ以上は子供の耳もあり、話すことは避けた。こうちゃんは相馬さんの隣りに座り、わたしはその子へご飯の用意をした。
物怖じせずに、箸をよく動かす。その仕草を、大人が三人、どうでもいい会話を短く交わしながら眺めている。
食事が済み、こうちゃんは退屈そうにテレビの前で体操座りをしている。片付けを終えたわたしは、またお風呂に入れてあげようかと、相馬さんに許可を取ると、聡見さんがそれを遮った。
「俺が入れてやるよ。由良ちゃんは大変だろ、男の子なんか」
「大丈夫ですよ」
「お姉ちゃんがいい」
こうちゃんが言い、それでややむっとした顔の聡見さんが引っ込んだ。わたしはこうちゃんを連れて、風呂場に行く。着替えは、相馬さんが持ち帰った、園に置く替えのものがあった。
服を脱ぐように促すと、背に痣のようなものが幾つか見えた。それに息を飲んだが、ともかく風呂に入れてから、とやり過ごした。
小さな身体を検め、他に傷などがないことを確認した。自分ではつけられないはずの、幾つもの背の痣に、胸が痛んだ。
何があったのだろう、と可能性を考えても、どれも暗いものになる。
「ここ、どうしたの? 痛い?」
「痛くない。…つねった」
「お母さん?」
「…う…ん……」
要領を得ない返事だった。母親がやったのではないのかもしれない。では誰が?
童謡を歌いなどし、身体を洗ってやり、自分も手早く済ませて風呂から出た。
何か話していたらしい相馬さん父子が、わたしを見た。こうちゃんのことだろう。わたしは相馬さんを呼び、部屋の隅で、風呂で見た背中の痣の件を伝えた。
相馬さんは目を瞬かせて聞き、返事を返さずにこうちゃんへ振り返った。側に行き、シャツをめくった。その背を仔細に眺めてからシャツを下ろした。その様子は、当然に聡見さんの目にも入る。
やはり、誰よりも先に聡見さんが声を出した。
「背中、誰がやったんだ? おい」
こうちゃんはいきなりの問いに答えない。ふてくされたような怯えたような、目を相馬さんに向け、膝を抱えた。わたしは子供に冷えたお茶を与えて、自分も少し飲んだ。
口を出すべきではないが、この子のこれからが気にかかる。
「お母さんから、連絡は?」
「まだない。由良ちゃんが風呂に行ってから、親父が母親のケイタイに掛けたけど、出なかった」
「そう…」
相馬さんが柔らかい口調で、子供に問いかけている。母親が誰か家に連れて来ないか。「うん、来る」。それはどんな人か。「男の人…」。その人のことが好きか。「お菓子をくれるときは好き」。
「お母さんは、その男の人を何て呼んでる?」
「ハマちゃん」
「こうすけは、何て呼ぶ?」
「呼ばない。ねえ、とか言う」
「お母さんとハマちゃんは、喧嘩するか?」
「するときもある。でも…」
「でも、何だ?」
「あいつ、強いから、…お母さん、我慢してる」
「こうすけの背中に、小さい痣があるんだ。叩かれたり、つねったりしたときに出来る怪我みたいなもんだ。それはどうした?」
「あの、…それは…、あの…、僕…」
言い淀み、そこでこうちゃんは顔を歪ませて泣き出した。震わせる幼い肩が堪らず、わたしは引き寄せて抱きしめた。
「大丈夫だよ、怖くないよ」と繰り返し、こうちゃんが落ち着くのを待った。涙が引き始め、相馬さんはまた問いを持ち出した。はっきりさせねばならない個所なのだ。誰がこの子を傷つけているのか、とても大事な問題だった。
「ハマちゃんは、こうすけの背中をつねったりするのか?」
こうちゃんは言いつけを守らない罰なのだと、子供の言葉で話した。ハマちゃんが持ってこいと言った煙草を持ってこなかった。片付けをしなかった。うるさくした…。そんなときに、男はこの小さな背中に痣を作るという。
知らず、わたしは自分の指を噛んでいた。このような話を直に耳にしたことはなく、その衝撃は大き過ぎたのだ。
九時に近くなり、子供はともかく寝かせることにした。わたしがいつも寝ている和室に布団を敷き、こうちゃんを寝かせた。タオルケットを掛けてやり、程なく寝息が聞かれる。
一人寝に慣れているのだろうか。それもあるかもしれないが、強い子なのだ、と思った。
しばらくついてやり、テレビの部屋に戻れば、相馬さんが、こうちゃんのことを明日児童相談所に連絡すると言っていた。
「早い方がいい」
それに、聡見さんも頷いている。「これ以上、虐待がエスカレートしたら怖いな」
母親の連絡を待ちながら、それに関することを話し合っている。わたしは二人にお茶を入れて、口も利かずに、何となく開かない玄関の方を気にしながら待った。
十一時まで待ったが、その日は母親から連絡がなかった。意見を言う立場にないわたしでも、ひどいと、ため息が出た。
普段は、夕飯を食べればそのうち帰って行く聡見さんが、この日は遅くまで残っていた。子供を引き取りに来た母親がここへ、「ハマちゃん」を連れて来ないとは限らないからだろうか。
聡見さんが帰ってから、玄関は施錠した。それから間もなく就寝したが、耳が、玄関チャイムが鳴らないかと、やや期待している。
傍らにこうちゃんを見ながら、この日母親が現れなかった可能性を、あれこれと浮かばせているのだ。急に出先で具合が悪くなり、来られなくなった。ケイタイの充電が切れて、園に連絡がつかなくなった。誰かの急病で、場を抜けられなくなった…。
しかし、それらは、筋に穴だらけの下手な小説のようなものばかりだ。園の電話番号など調べるのは容易いし、ケイタイの充電が切れても、他に電話を掛ける手段は多くある。
事故や災害にでも遭わない限り、あり得ない。もしそうなら、とも想像するが、それよりも、自分の意志で連絡を怠ったと解釈する方が、すんなりとする事態だった。
これが初めてではないのだ。もう二度目になる。
こうちゃんには、ひどく気の毒で、可哀そうではあるが…。
うろうろと、頭を悩ますこと疲れ、わたしは目をつむった。その途端、ふわっと声を感じた。それは耳で感じる普段の音ではない。肌が感じる感覚に似た、直に心に響く記憶の中のガイの声だった。
いつも耳の奥にそれは届いて、直接わたしに彼を感じさせてくれる。その声をうっとりと受け入れながら、わたしはふと涙ぐんでいた。
辛いのではない。眠気を覚えつつ、自分が悲しいのだと思った。離れている距離も、側で眠るこうちゃんの境遇も。わたしが感じるのは、寂しさだ。
声だけでなく、ガイの腕に抱いてもらいたいと願っている。




             

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