さようならの先に
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翌日、午前の早いうち、相馬さんは児童相談所に連絡をした。昼前に職員が現れ、こうちゃんに面接をし、相馬さんと話して行った。保護のためどこか近隣の施設に伴おうかとの勧めを、相馬さんが断った。「そっちも夏休みでしょう」。
「母親の連絡を待ちながら、こちらで預かりますよ」
その声に、職員が少し嬉し気に頷いた。相手が保育園のベテラン園長で、安心感もあるのだろうが、危機感が薄いのではと、やや歯がゆかった。母親の側にいる男は、あんな幼い子に、跡の残る振る舞いを繰り返す人物なのだ。
職員が帰った後で、こうちゃんは相馬さんに訊いた。「ぼく、行かなくていいの?」
児童相談所の職員を、自分をどこかに連れにやって来た大人と感じていたようだった。それに相馬さんが首を振ると、笑顔になった。
「行きたくない。怖い所だって、あいつが言ってたから」
「ハマちゃんが言ったのか?」
「うん…、言う通りにしないと、シセツに放り込むぞって。ぼくみたいなちびは、すぐにいじめられるって…」
いい加減なことを吹き込んだ「ハマちゃん」に怒りが湧いた。この子の家庭環境が好転しなければ、先、母親から離れた場で生活することも十分あり得る。その場がいかに整っていたとしても、小さな今のこうちゃんには辛い未来だろう。
何となく唇を噛み、生活の変化が大きな波のように人のこれからをのんでいくのを、ふと思った。かつての自分がそうであったように。
その中で、多くを失い、わたしは変わったように感じた。けれども、変わるのは自分ではなく、こちらを見る周囲なのだと、今では思う。
そして、そんな視線を受け止めるには、こうちゃんはあまりに幼過ぎるように思われ、胸が痛んだ。
昼食を摂らせ、昼下がりには近くの公園に連れて行った。水遊びの場があり、他の子に交じり夢中に遊ぶ姿を、わたしは微笑ましく眺めた。
幼い子は、あらゆる可能性の塊だ。まじりっけなく、そう思う。小さな彼らの手には、どんな素晴らしい未来だって、握ることができるような気がする。
つられ、以前ガイが口にした、先を「意図」し選ぶ話を思い出すのだ。無邪気だからこそ、知識がないからこそ、望むこれからを意図してほしい。無理だとか、遠過ぎるとか、大人の余計な杓子定規に囚われないで、「全ての欲しい」を描いてもらいたい。
気持ちよさげにぬれながら遊ぶこうちゃんを見ながら、わたしは切実に願った。
 
やはり、その夜も母親からの連絡はなかった。
相馬さんは、昼間に親子が暮らすアパートを訪ね、その管理会社にも足を向けている。何かの事件や事故の場合も考慮してだ。近所の人からは、彼女が男と車に乗り出掛ける姿を見たという情報も得た。
「そいつ、例のハマちゃんか?」
聡見さんが訊いた。
彼は相変わらず、実家に夕飯を食べに来ている。相馬さんは頷き、こうちゃんに、「うまいか?」と訊ねた。
「うん」
鶏の照り焼きを頬張り、口の周りを汚している。拭いてあげようかとティッシュを取ったが、後でいいか、と思い直した。代わりに、イワシの生姜煮を促した。
「お魚も食べようね。骨も柔らかいから、食べられちゃうよ」
「うん」
「偉いね、好き嫌い言わないで食べるね」
「うん、おいしいから」
頭の方からイワシにかぶりついたこうちゃんの頬を、聡見さんが指の背でちょんと突いた。
「子供のうちだけだぞ。飯食っただけで褒めてもらえるのは」
「何だ、お前が褒めてほしそうだな」
と相馬さん。聡見さんはご飯を頬張り、首を振った。
「おじちゃん、褒めてもらえないの?」
こうちゃんは、聡見さんを上目で見ている。彼も、こうちゃんの「おじちゃん」呼びに最初はたじろいだようだが、今は慣れたらしい。
ガイとそう差のない年齢ながら、気も若く、子を持たないためか、「お兄さん」から「おじちゃん」への境目に違和感が大きいのかもしれない。
「そうだな。大人になると、出来て当たり前が普通になるんだ。余程凄いことでもなければ、誰も褒めたりしてくれない。それも一度やり遂げれば、次はその凄いのが普通になる。そうやって、段々超えるハードルが高くなる」
聡見さんの言葉のどこまでを理解できたのか、こうちゃんはじろりと彼を見、ふうんともらした。
「大人は、毎日厳しいんだぞ」
箸を持ったまま彼がこうちゃんの頭をくしゃっとなぜた。くすぐったげにこうちゃんはそれを受け、
「でも、ぼく大人になりたい。早くなりたい」
その声に、わたしたち大人は、はっとしたように目を見合わせてしまう。まだ小さなこうちゃんが、どれほどの思いで口にしたか、よくわかる気がしたからだ。
「ぼくが、お母さんをおんぶできるくらい」
「そうか」
相馬さんが相槌を打ってやり、何となくわたしも頷いた。こうちゃんのお母さんを守りたいという気持ちが、言葉から察せられ、嬉しくなった。優しい子なのだ。
「聡見、お前も偉いな。残さず食べて」
不意に相馬さんがそう言った。それに、聡見さんは「え」と、父親を見る。
「褒めてほしいんだろう、お前も」
「は」
きれいに食べ終えた彼の器を見て、わたしも口が開いた。
「本当。偉いですね、聡見さん」
「…何だ、由良ちゃんまで」
軽くにらまれたが、笑っておいた。
 
その晩は、聡見さんは実家に泊まるという。明日午前早くに、わたしを両親の墓参りに連れて行ってくれるため、便利がいいからだ。
何度も遠慮したが、彼自身が時間も空いて暇だと言い、相馬さんも強く勧めるため、素直に甘えることにした。
忙しい社会人で、お盆休みは大きな意味があるだろうに、「暇だ」とわたしにつき合ってくれる。家庭のある人なのに。その辺りは訊き辛く、問うことはしなかった。
一日程度は、父親の頼みと割り切ってくれているのかもしれない。それでも、前日から外泊するのは、少しそぐわない気もした。
「嫁さんには、断ってあるのか?」
さすがに親子で、相馬さんはあっさりとそう訊く。こうちゃんを寝かしつけた後で、用もなく、つい聡見さんの答えに耳が向く。
彼は泊まりの気安さで、ビールを飲んでいた。
「言ってあるよ」
「向こうは、何て?」
「用事があるんだと。友人と会うし、他に母親とどこかに出掛けるらしい」
「母親って、お前の姑さんだろう」
「そんな感じじゃない。滅多と会わないし」
「休み中に、向こうの家には挨拶には行くのか?」
「そんな意味ないよ。父親の方には会社でよく会うし、話もする」
「仕事の話だろうが、それは」
「他に何があるんだよ。もう若くもない婿と何を話すんだよ、子供の話もできないし。大丈夫、親父さんはこっちのやり方に理解があるから。いつも謝られるくらいだ、落ち着きのない娘ですまないって」
「…理解にも限度もあるぞ」
相馬さんはそう話を締めくくった。ふと、そこで聡見さんが笑った。ちっとも楽しい話ではなかった。何がおかしいのか。
「由良ちゃんが、聞き耳立ててるから」と言う。
「え」
何気ない振りでいたのに。すっかり見抜かれていたことが恥ずかしく、頬が熱くなった。わたしは顔を背けた。
「普段は浮世離れしてるのに、他人の夫婦仲には興味があるんだな」
「…ありません」
興味などない。ただ、夫婦でありながら、互いにまるでよそを見合うような聡見さんの家庭の雰囲気に、不思議な気がするだけだ。子供がいないから、というのはその理由にならないと思う。
口にはしない。他人の生意気で失礼な意見であるし、言っても怒りはしないだろうが、からかわれるだけだから。
黙ったわたしの頬に、彼はおっかぶせて言う。「由良ちゃん、結婚に夢なんか見ない方がいいぞ」。
「愛だの恋だの…、理想は生活になれば、すぐに現実とは遠いとわかるよ。互いに猫をかぶり合うのも疲れるし、譲るの譲らないのの綱引きみたいなやり取りも、毎日じゃうんざりする。運動会じゃあるまいし」
顔を戻せば、彼はわたしを見ながら少し頬を緩めていた。経験者談、と先輩風をふかして見えるのがちょっとおかしい。
「綱を手放したら、いけないの?」
「そんな…、油断したら、ずるずる相手の陣地に引きずられておしまいじゃないか。何もかも渡して、折れることになる」
「奥さんに全部渡して、折れたらいけないんですか?」
これは、ちょっと意地悪な返しかもしれない。「出来る訳がない」とあきれる聡見さんの反応を予想しての言葉だった。本音ではあるけれど。
しかし、彼の表情は違った。驚きの後で少し強ばったように笑う。
「相手も同じだけ差し出してくれるんなら、な。…つり合わないと、上手くいかないぞ。どっちかが、片方の言いなりじゃ、奉公してるみたいだろ。譲る方は、不満もたまるよ」
ふうん、と相槌を打つ。何となく頬に手が行った。ふと考える。
わたしとガイのありようを、以前相馬さんは「対等に見えない」と指摘した。そのことに異はない。ガイと対等でありたいという考えが、そもそもわたしにはない。
それは、やはり「奉公している」に似たことなのだろうか。自分が引く分とほぼ同じ量を相手が渡してくれないと、つり合わないのだろうか。
わたしは、ガイに彼らしく振る舞っていてほしいと、そればかりを思う。わたしに関して窮屈を感じてほしくないのだ。
そこへ、聡見さんの声がした。
「わかんないんだろうな、由良ちゃんには」
「…あげた分と同じだけくれないと、というのは、変じゃないかな、と思う」
「何で?」
「だって、…例えば…、わたしが聡見さんにハンバーグを一個あげたとしますね、でも、わたしは聡見さんからお返しに、ハンバーグを一個要りません」
「どうして?」
「ハンバーグって一個に中身がぎっしり詰まっていて結構量が多いから、お腹がふくれそう。その半分でいいです」
「は」
彼はわたしを見たまま、やはり固まり、すぐに笑い出した。「ハンバーグならいいよ、それで」
何がおかしいのかわからない。ハンバーグは単なる例え話だ。何を差し出したとして、相手から返してもらう、充分に思う量など人それぞれだと言いたかっただけなのに。
「お前が、度量が狭くてケチなだけだ。何でも割り勘主義で、女の子に奢ってやるのが損だと思ってるんだ」
相馬さんの声に、聡見さんは笑いを引っ込め、ややむくれた顔をした。「奢るくらいする。それに、そんな単純な話じゃない」。
そうだろうか。複雑にしているのは、聡見さんのような気がする。相手に裏切りや偽りがあるのなら別だが。
わたしなら、ガイの存在が嬉しい。ノアの存在が愛しい。それは大き過ぎるギフトで、報いる何かを求められたとして、その術がない。そこで、わたしは単純に完結してしまっていた。
「能天気なことを言って。優しいだけの男に騙されるなよ」
と、なぜか聡見さんはわたしに矛先を向けた。自分の家庭の話だったのに。
「彼女は大丈夫だ。いいご亭主がきっと現れるよ。少々傲慢でも、何が大切かわかっている人物がな」
さらっと相馬さんが言葉を挟んだ。それが誰を指してのものかは、すぐに知れた。ちらりとわたしを見る。
聡見さんはちょっと不審げだ。
「少々傲慢だの、何だか具体的だな」
「大きな実質の裏打ちのある人間は、多少は傲慢にもなるだろう。それくらいしかケチのつけようのないのが、きっと現れるさ」




             

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