さようならの先に
25
 
 
 
 
「何? 人を追いかけて」
聞いたことにない聡見さんの低い怒声がする。彼は言いながら、わたしを背中に庇ってくれた。
そこからわたしは、ポロシャツの男性をのぞいた。ユニフォームも着ておらず、霊園の関係者には見えない。一般の墓参者に見えるが、服装も含め、何となく全体にくたびれた様子だ。
男性は、髪に白いものが一杯混じった頭を、左右に振った。「すみません」。か細い声が言うのが聞こえた。
聡見さんはわたしを庇ったまま、
「何か用ですか?」
と訊く。
「…はい、由良さんに。その人は由良さんでしょう?」
見も知らぬ人の口から自分の名が飛び出し、わたしはぎょっとなる。聡見さんも背後のわたしを振り返った。
「知り合い?」
「いえ…、全然知らない」
わたしへ確認を取った後、聡見さんは男性に、ぴしゃりと告げる。「彼女は知らないって言ってるんです。もういいでしょう。迷惑ですから」
そして、開けたドアからわたしを車内に押し込んだ。自分も乗り込み、エンジンをかける。車内は熱気で蒸れたが、出来事が不気味でうそ寒さを感じた。聡見さんが、未だ立ち去らない男性に向け、窓を開けて、
「出ますから。どいて」
と言った。その声にかぶせるように、「由良さん!」ともう一度男性はわたしの名を呼んだ。怖かった。見たくはないが、わたしの名を知る見知らぬ男性がどうしても気にかかり、目をやった。
「時任だ。わたしは時任です。あなたに、話が…」
窓が下りる狭間に、その声はわたしの耳に届いた。
 
どうして。
 
指が唇に触れた。いつも困ったときの癖が、こんなときも出る。じんと指先が冷える気がした。
「知ってるのか?」
わたしの様子に、聡見さんがこちらをうかがう。それに返せず、わたしはもう一度ガラス越しに時任と名乗る男性を見た。まるきり雰囲気が違うが、背格好や顔立ちは、確かにあの彼のものだった。
「由良ちゃん、どうなんだ?」
聡見さんの声に焦れが混じるのがわかった。それで、我に返るようになり、わたしは頷いた。
「知ってます」
ごまかすことはできた。知らん振りでこの場を去ればいい。けれど、あの時任さんが、どうして今頃わたしの目の前に現れたのか。必死なように呼びかけ、「話がある」というのは、何なのか。
全てに関係ないと、目をつむればいいのだ。過去のわたしは幻のようなものだから。けれども、強く後ろ髪を引かれるのだ。
「少し、話を聞いてもいいですか? 何の話かわからないけど…」
「いいのか? ちょっと、危ない感じもするぞ」
彼があんなにわたしを庇ってくれたのは、時任さんの身なりや行動が、普通に見えないからだ。
「少しだけ。お願いします」
断っておいて、わたしは返事を待たずに外へ出た。不振でしかなかった男性が、あの時任さんだとわかり、それで恐怖は消えた。聡見さんの存在とは関係ない。
どうしてだろう、今のわたしは、あの彼と対することが怖くはないのだ。
当たり前に、聡見さんも車を降りた。「え」と彼を見ると、「側にいる」と譲らない。
「都合が悪い話なら、聞かないから」
「でも、聞こえたら、聞くでしょう?」
「そんな、まずい関係でもあるのか? あの男と」
「…あるのかも」
昼を回り、いつしか墓参者もまばらになっていた。わたしは突っ立ってこちらから目を離さない時任さんにちょっと頷いた。彼の目が、一瞬眼鏡の奥で見開いたのがわかった。
暑いから、先ほどの休憩スペースに彼を促した。離れずに、聡見さんもついてくる。
日陰のベンチに腰を下ろすと、時任さんはわたしの傍らに立ったままでいる。「どうぞ」と勧めるが、座らない。聡見さんも腕を組み、そんなわたしたちを眺めている。
「何ですか? 話は…」
彼にとって過去のわたしは、火事の最中に行方不明になった、雇い主の元婚約者だ。その失踪は奇怪だろうが、それだけのことではないか。何年ものちに、必死に呼びかけて、その謎の答えを聞かなければならない程の価値はないはず。
「まず、これを、これを聞いて下さい」
言い終るや否や、時任さんはわたしの前に土下座をした。額を地面に押し付け、謝り始めた。「申し訳ない。すみません、…申し訳ありませんでした。許して下さい、許して下さい…」
何かの呪文のように謝罪があふれた。それにあっけにとられ、わたしは呆然となった。止める間もなく、謝罪は続き、
「簡単に許してもらえるとは思っていません。あのときのあなたに、本当にわたしは、罪深いことをしました。…どれだけ謝っても、謝っても足りない…」
不遜で意地悪な時任さんしか知らないわたしは、彼のこの豹変に芯から驚いた。これが、いつかのように、わたしを窮地に導く、彼なりの手口なのかもしれない。冷めた目で、土下座を止めない彼を見下ろした。
側で、聡見さんが息を詰めてわたしたちを見ているのは知っていたが、今、取り繕う余裕はなかった。
不思議なのは、今日ここにわたしがやって来ることなど、この人にわかったはずがないのだ。その理由が知りたかった。
「どうして、ここにわたしがいるとわかったんですか?」
彼は顔を上げ、わたしの失踪後、随分長い間、この霊園を張っていたという。管理人に金を払い、わたしが来たことを知らせてもらう手はずになっていたらしい。そのため、住まいもここからほぼすぐに移した、とまで言った。
「盆は墓参りに来るかと、朝からずっと出入りを見ていました」
「相変わらず、気持ちが悪いことをするんですね」
そこで彼は、苦笑のような声をもらした。そんなところに記憶の彼が垣間見え、不快になった。既に怖くはないが、わたしはこの人がやはり嫌いだ。
時を経ても、ここまでわたしに執着し続けることが不気味だった。まさか、謝るためにだけやっていた訳がない。
「…みんな、恐ろしい目に遭っていなくなった。信じられないでしょうが、本当です」
震える声だ。
そこから彼は、わたしが消えてから数年、彼の周囲に起きた出来事を語った。まず、勤めていた丹羽経営コンサルタントの社長が、暴力団絡みの事件に関与したとして逮捕された。
それが始まりで、大きな仕事がどんどんとつぶれていく。三月もしない間に、会社は破たん状態になった…。
人の不幸を糧にした、ろくでもないことばかりやっていた会社なのだから、しょうがない結末だろう。
「そこから、何をやってもトラブルばかりで…」
幾度も社名や代表者名を変えたが、必ず警察の横やりが入り、頓挫した。一度ならず、彼も逮捕されているといった。
「実刑は免れましたが…。もう、かつての稼業では食えなくなりました」
時任さんの言う「災い」は、そこで留まらず、社長の家族に及んだ。放火に遭い息子や娘が大けがを負ったという。
彼自身は火事にも事故にも遭わないが、生活苦に追い込まれた挙句、失業から程なく、片目の視力をほぼ失ってしまったと打ち明けた。
「え」
「医者も首をひねりました。どこを調べても、原因不明とさじを投げられましたよ。治療法もない。遠からず、もう片方の視力の低下もあり得ると…」
そこまでを語り、彼はうなだれるように俯いた。今は、知人の便利屋に使われていると言い添える。
「…社長は?」
「あ、はい。あの人は、最後の逮捕の後で、拘置所で亡くなりました。誤飲をしたのが理由だとか…」
「え」
「食い物が喉に詰まって、それで窒息死です」
わたしは彼から顔を背けた。嫌な話が続き、胸が悪くなる。
ここまでを聞き、彼の謝罪が腑に落ちた。こじつけでも何でも、かつて苛んだわたしへ謝ることで、厄落としをしたいのだ。
馬鹿らしくなった。わたしには、何の関係もないではないか。事業の破たんは自業自得であるし、家族の放火は、きっと誰かの恨みを買ったためであろう。社長の死も、時任さんの病気も、わたしとは何のつながりもない。
つなげているのは、彼の妄想だ。
「気持ちの整理なら、どこか別の場所をどうぞ。カウンセリングとか、宗教とか、専門家に…」
「もう行ってます。カウンセリングは、金の無駄遣いだが、宗教は違う。『ともしびの絆会』の信者になりました。そこで教祖さまに…」
わたしは耐え難くなり、立ち上がった。彼の前で両の手を広げて、何度もやんわり押して見せた。いつしか身に着けた、相手への拒絶の仕草だ。
「止めて。もう聞きたくありません」
黙ってやりとりを見守っていてくれた聡見さんが、わたしの肩を叩いた。「もう行こう」という。
別れの言葉も言わず、時任さんに背を向けた。その背に、とんと彼の声がまた追い打ちをかけるのだ。
「矢嶋さん、覚えてるでしょう。あの人も死にましたよ」
わたしは驚きに振り返った。折しも、今日あの人のことを思い出していたからだ。
「あなたに充てて、遺書もありました」
「え」
「自殺でした。社長のことがあって、彼も色々思い詰めていたようですよ」
衝撃に、暑い中背筋が寒くなる。
動けなかった。聡見さんがわたしに歩を促すが、顔色の悪い時任さんの顔から、目が離れなかった。
驚きを隠せないわたしを前に、時任さんが不意に立ち上がった。胸ポケットから紙片を出している。それをわたしへ差し出した。
「言葉での償いなど、何の意味もない。由良さん、あなたもそう思うでしょう。だから、矢嶋氏も死を選んだ。これを…」
「何ですか?」
「あなたに、どうしても受け取ってほしいんです。教祖さまも、そのことでしか、わたしは過去の呪いから自由になれないと仰せになりました。矢嶋氏の遺した手紙は、あなたも見たいでしょう?」
わたしは言葉を返せず、彼の指先の紙を見ていた。わたしはその紙を受け取った。これを受け取らなければ、この気味の悪い人から離れられないように思えたのだ。
メモ用紙を折った内側に、電話番号とメールアドレスが記してあった。
「…矢嶋さんの手紙なんですね」
紙をポケットにしまいながら、言った。ひどく喉が渇いていて、声が出し辛い。
「それは、おまけですよ。それを最初に言わないと、あなた受け取ってくれないでしょうから」
相変わらず、嫌らしい。彼が他に、わたしに渡したいというものが、まったく思いつかない。
「五億円です」
 
え。
 
「はあ?」
初めて、これまで部外者でいた聡見さんの声がした。
「社長があなたの父親から搾取したのは、その程度の額ではないのは承知しています。しかし、事業が破たんする前後で、かなりの資産が目減りしていて…。それでも、矢嶋氏と協力して、処分するものは処分し、出来る限りかき集めたものなんです」
彼は真っ直ぐにわたしの目を見た。
「あなたに、受け取ってほしいんです。あなたが受け取るべき金です。急にこんなことを言われても、驚くしかないでしょうが…」
彼は、返事をしないわたしへ、気持ちが固まれば連絡が欲しいといった。誰に相談してくれても構わない、とも。
「これで終わりです。あなたが金を受け取ってくれさえすれば、もう二度とあなたの前に現れることはありません。絶対に」
少し、言葉を切った後で、
「わたしだって、そろそろ終わりにしたいんですよ」
その言葉を最後に、頭を下げて彼は去って行った。両の肩が、力なくアンバランスに揺れていた。健康を害しているのは、本当のようだった。




             

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