さようならの先に
26
 
 
 
 
車に乗り込むまで、聡見さんは無言だった。声を出したのは、熱気がエアコンで心地よく薄れた後だ。
「突っ込みどころが満載の、さっきの話し合いだけど…」
その困惑し切った声音に、申し訳ないが少し笑ってしまった。時任さんの姿が消え、ほっとしたのも大きい。
そんなわたしを、聡見さんはやや睨む。
「ごめんなさい」
彼はため息をつき、「とりあえず…」と昼食に行こうと提案する。そういえば、時任さんがあんな形で現れなければ、とっくにそうしていたはずなのだ。喉も乾いていた。はい、と頷いた。
少し走った先に、農家の直営するレストランがあった。オーガニック栽培を謳った人気店らしく、昼食には遅い今も程よくにぎわっている。聡見さんの「どう?」の声に、反論などない。
席に案内され、互いにお薦めだという日替わりの『カラダにおいしいランチ』を注文した。冷えた水がおいしい。一息に半分ほども飲んだ。ほっと息をつく。
「緊張してたんだな」
「…それは」
「君は、何者なの?」
訊かれるとは覚悟していた。墓参で得体の知れない男が待ち伏せし、土下座しながら奇怪な因縁話を垂れ流す…。聡見さんの知る、世話好きで朗らかな『杉本先生』の娘さんでは、あり得ない出来事だった。
彼の目を見、そこからやや下に視線を外した。シャツから夏らしく日に焼けた首元がのぞく。
わたしが何か話すより先に、彼が切り出した。
「実は、知ってたんだ」
「え」
目を上げた。
彼は、わたしが相馬さんの家に現れてすぐに、父親が説明する、以前勤務していた保育士の娘ではないとわかっていた、といった。
「親父がしばらく行方不明になった後で、ふらっと帰ってきた。若い女の子と一緒だ。「杉本先生の娘」だって親父は言うが、俺は妙な気がした。だから…」
彼は確認したのだ。本物の杉本先生に。
「ごめんなさい。心配ですよね、お父さんの側にわたしが急に現れて…」
「それはいい。親父もへろっとしているし、由良ちゃんにも悪意はなさそうだった。何か訳があるんだろう、とは思っていたけど」
「悪意なんて…」
「だよな」
そこで、注文の『カラダにおいしいランチ』がテーブルに届いた。夏野菜と豚肉のグリル、自家製豆腐、玄米チャーハンには煮卵が添えられていた。ちなみに、玄米チャーハンは好みで、野菜のちらし寿司に変更できる。わたしはこちらを選んでいた。
テーブルの品を前に、やや沈黙があった。聡見さんが箸を取り、
「食べよう」
と、わたしにも勧めた。
やや冷えた指先で、箸をつかむ。食器が触れ合う音と会話などでにぎやかな店内で、わたしたちだけが別の空気の中にいるようだった。
ううん、わたしたちだけが、ではない。わたしだけが、だ。
「親父は、知ってるのか? 本当のこと」
「…はい」
聡見さんは軽く頷き、後で自分も話を聞きたいと言った。「いいか?」。
「はい」
「じゃあ、食べよう」
箸を進めながら、
「『カラダにサプリ』とか『カラダが喜ぶ』ってフレーズの付いたメニュー、女の子好きだよな。雑穀米とか、玄米とか」
これまでと同じような、他愛ないことを話す。さっきの出来事を引きずる、わたしの気持ちをほぐそうとしてくれているように思えた。単に、沈黙のままの食事が気まずいだけなのかもしれないが。
「…ヘルシーな感じがするからかも」
「その、ヘルシー感。そういうのって、男からしたら、大して旨くないこと多いんだよ。量も少ないし。でも、ここのは旨いな」
「そうですね」
箸を付ければ、どれもしみじみとおいしい。素材がよく、丁寧に調理されたものは、そのまま味に出るのだと、単純に思う。
「俺が、店の悪口でも始めたのかと思っただろ」
「ちょっと」
少し笑った。やはり、わたしを気遣ってくれている。そう感じるのは、わたしが今きっとこの人を前に、素直でいるからだろう。
ふとした思いが口に出た。
「相馬先生の保育園も、この『カラダにおいしいランチ』な雰囲気がします」
「は」
「小さくて素朴で、だからこそ丁寧で。『要らないものは入れない』みたいな、質実であったかい感じ」
「足りないだらけで、ぼろいだけじゃないか。あちこちつぎはぎの。そんな、どこかのパンみたいないいもんじゃないぞ」
「中にい過ぎると、見えにくいんじゃないですか」
「俺は外部だ」
聡見さんは、学生の頃は結構手伝わされた、という。毎年の夕涼み会では、フランクフルトをうんざりするほど焼いたらしい。
「クリスマスには、サンタもやった」
やや苦い顔を見せるが、照れたポーズのようだ。当たり前に子供に優しく、同じく実家の稼業に理解があるのだ。そうでなければ、虐待が疑われるこうちゃんの件でも、あんなに気に掛けたりはしないはず。
食事を済ませ、店を出た。ごちそうになり、礼を言う。
車に戻り、走り出した。程なく、質問が始まった。
「言いにくいことはパスしていい。まず、親父とはどこで会ったんだ?」
「…パス」
「いきなりか。…じゃあ、本名と元々の住所」
そのままを話した。仕事も訊かれ、学生だったと答えた。
「今日君は、誰の墓参りをしたの?」
「両親です」
そこで聡見さんは黙った。わたしに両親がいないことに、驚いているようだった。
「ごめん…」
「ううん、構いません」
「これはパスしてもいい。どうして、ご両親は亡くなったの?」
わたしは首を振った。パスするつもりはなかった。母はわたしが幼い頃に他界していたことと、父の自殺のことを告げた。
「その原因が、あの…」
聡見さんの言葉の先をわたしが補った。「霊園で会った時任さんと、彼の雇い主だった社長の丹羽です」
二人が父から多額の金を奪ったことは、聡見さんも聞いていた。それとわたしの話がつながったのだろう。
「悪質なブローカー崩れのコンサルがいることは、聞いたことがある。資産家を狙って食い物にするやくざな連中がいるってな。君のお父さんは、その手合いに騙されたのか…」
聡見さんは、わたしの手をぽんと軽く叩いた。
「気の毒だったな、それは…」
そこで質問は途切れた。ここまでで、聡見さんの知りたい、わたしの謎は消えたのだろうか。
あの時任さんらに父が騙され、それを苦に自殺した。その償いのために、今日彼が霊園にわたしを待ち伏せていた…。
辻褄はこれで合う。
家の放火やその後のわたし自身の失踪などは、伏せてもいい事柄かもしれない。他人には信じがたいものも含まれるし、何より、聡見さんがこれで納得してくれたのなら、もういいのだ。
ふと、聡見さんがわたしの手を握った。大きな手だった。指先が冷えていたから、手の温かさを強く感じてしまう。
「誰か、頼りになる大人はいなかったのか」
聡見さんの言葉は独り言めいていた。悪辣な彼らのやり口に、腹を立てているようだ。ずけずけと強引な面もあるが、間違いなく思いやりのある人だ。
未だ包まれたままの指先に、思い出がよみがえる。過去のあのひととき、人の優しさから身勝手に逃げ出したことを。
それには、今もつきんと胸を突く痛い感情が伴う。時が経ち、それは、あの人への罪悪感ではもうないのかもしれない。
ただ、心の中のごく不快な場所をのぞくようで、気持ちが塞ぐのだ。
指を自分から外した。
「…お金のこととか、何にもわからなくて。気づいたら、もう終わっていました」
彼は唇を噛み、ちらっとわたしを見た。
「これ以上は、パスしたい気分か?」
「え」
ゆらりと首を振る。拒絶は出来たが、それではこの彼に失礼な気がした。
「あの男、すごく怯えていたな?」
「…不健康そうで、やつれてた。前とは…、全然違ったから、わからなかった」
「言い方が気に障ったら、謝る」。そう前置きをしてから、彼は言葉をつないだ。
「死に追いやってまで、他人の金を奪う奴らだ。さっきの時任も「稼業」って言っていた。当たり前の仕事だったんだ、あいつらには。君のお父さんの件以前にも以降も、絶対にやってる」
そういえば、わたしは丹羽社長の邸へ行ったことがある。その際、社長の書斎の壁に、大きな日本地図が貼られていたのを覚えていた。点々と書き込みもあった。
果たして、経営コンサルタント業に、あんな大きな日本地図が要るものなのか。今では判断のしようもないが。
もしかしたら、狙うターゲットをあんな場所に記してあったのかもしれない。わかり易く。
丹羽社長はもういない。あの男たちに無残に人生を奪われる人々が、もう増えることはないのだ。
消えていい人間というのは、確かに存在する。たとえ家庭人としていい夫や父であったとしても、そんな側面はわたしの目から、どうでもいい。何の痛痒もなく、そう感じる。
「どうして、君のお父さんの件だけ、あんなに怯えるんだろう。人を苦しめて何ぼの悪人が、根拠のない因縁話に震えて、償おうとするんだ? 他にも、ほぼ殺したような被害者がいるだろうに。由良ちゃんにだけ、金まで返すと言ってる」
「…精神的に、参ってるんじゃないですか? 病気だと言っていたし…」
「確かにそうだろう。自殺者まで出てるらしいから…」
応じず、息をのんだ。
矢嶋さんの死の驚きが、わたしの中で、今も尾を引いていた。どうして自殺なんて…。遺書まであるというが、どんな詫びも言葉も、ほしくはない。
まるで見えない渦が、次々に彼らをのみ込んでいったかのような印象だ。それは、わたしが去ってから始まっている。
そんな訳ないのに。
時任さんとの異常な再会が、わたしまで因縁めいた気持ちにさせる。こちらの世界へ戻ってしまったのは、このためだった…? 惨めな過去の後始末のため?
まさか。
そんなこと、望んでいないのに。
丹羽社長らの災難を当然とは思う。しかしそれで心が晴れたとか、復讐が叶ったと喜んでなどいない。彼らはわたしとは関係なく、勝手に自滅しただけなのだ。
そうでないなら…。
指を絡め、黙っていると、聡見さんが訊く。
「金意外に、奴らは君に何をした?」
ストレートな問いだった。一瞬、言葉に詰まった。それをどう取ったのか、「ごめん、パスだな」と、顔の前で手を振って見せた。
「嫌な質問だと思う。悪かった。踏み込み過ぎてるよな」
「いいえ」
相馬さんには打ち明けた、と告げた。それらもあって、今日までお世話になっているのだ、とも。
それに返事を返さず、彼は路肩に車を寄せた。停止させ、わたしへ向き直った。どうしたのかいぶかしい。
「細かいことはいい。教えてほしいんだ」
彼はわたしを見つめ、少し視線を下げた。言葉をためらう様子が珍しい。
「取り返しのつかないことではないんだろ? やり直しが効くようなことだよな?」
鋭い声は、真剣に問うからだ。問いの意味も、興味本位ではないのが伝わる。彼が訊きたいのはきっと、わたしがレイプされたかどうかだ。
それが、女性をとことんそして長く痛めつけることだと、多くの人が知ることだから。




             

『さようならの先に』ご案内ページ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪