さようならの先に
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わたしはあることを考えていた。
ふとした思いつきだった。ほんの前に兆したそれは、ぽんと胸の中でふくらんでゆく。
答えを待つ聡見さんが、焦れたようにわたしの手をつかんで握った。
心は決まったが、ややためらったのは、過去に深く関わってしまう気がして、たじろいだからだ。この世界により執着するようで、怖かったのだ。それは、わたしにとって禁忌だった。
しかし、他に選ぶ道もないはず。
「今話します」と、わたしは口火を切った。でも、とすぐに言い添える。
「聡見さんに、今度頼みたいことがあるんです。わたしに協力してもらえますか? あ、犯罪とか危ないことじゃありませんから」
「何? 俺に出来ることなら、手を貸すけど」
「ありがとう」
了解をもらい、ほっとした。わたしの思いつきには、彼の協力がぜひとも必要なのだ。相馬さんでは、ただただ首を振りそうだったから。
時任さんが返すという五億のお金を、わたしは相馬さんの保育園にそっくり渡す気持ちでいた。
 
父の死から始まった、丹羽社長や時任さんとの過去をほぼすべて話した。聡見さんには信じがたいあちらの世界のことは、もちろん伏せたが。
そして、辛かったわたしに救いの手を伸べてくれた、あの彼のことも省かなかった。
聡見さんは、また車を車道に戻した。
黙っているから、少し不安になる。気を悪くしたのかと思った。わたしは不幸には遭ったが、その分人を利用して、ふてぶてしく生き抜いたと見えないこともない。
「…嫌な話でしょ。ごめんなさい」
「いや、そうじゃない」
彼はわたしの頭にぽんと手を置いた。「よく逃げた、偉いな」。
その言葉は嬉しかった。
わたしは、自分の過去を汚れたものとして抱えてきた。無知で怠惰で愚か。そのくせずるいのだ。
それ以外やりようがなかった、と自分に言い聞かせたこともある。しかし、そう説く別のわたしも、そんな言葉を信じてなどなかった。
「よく逃げた、偉いな」。
だから、彼の言葉は、まるで、わたしがそのままでいいのだと認められたように思えた。
逃げて、よかったのだ。
頑張らなくても、立ち向かわなくてもよかったのだ。
こんなに遅れて、わたしが過去に許された気分になる。
涙があふれた。
過去の辛さににじんだものではなく、心の扉が開いたからだ。それは固く錠をかけた、過去をしまう開かずの扉だ。
自分で閉じ込め、自分で錠をかけた。自分で作り出した心の秘密に、自分を恥じていた。おかしなくらいの一人芝居だ。
聡見さんのくれた言葉を待つまでもなく。
ただ、わたしが自分を認めればいいだけ。汚れたとかずるいとか、そんなジャッジはいいのだ。それは内省ではなく、自分を罰しているだけ。
 
わたしのままでいい。
 
それだけに気づくことが、こんなにも嬉しいなんて。
わたしの涙に、聡見さんが慌てた声を出した。
「悪かった。色々思い出したんだろ? もう大丈夫だ。怖いことはないから」
「ううん…平気です。ごめんなさい」
指で涙を抑えながら、心で思う。
過去をもう一度やり直せるとして、わたしはまた同じことを繰り返すのだろう、と。
恐怖には抗うよりはのまれ、誰かの優しさに必死ですがる。けれど、そこに溺れ切る自分を、どうしても許せないのだ。ガイがいるから。だから、苦い思いで裏切ってしまう…。
認めてしまおう。それがわたしだ。
そして…、今も、あの頃も。
来てはくれないガイを待ち続けている。
 
話し終えてどれ程かして、聡見さんが訊ねる。
「さっき言ってた、俺に協力してほしいことって、何?」
「…時任さんの五億円、本当にあると思いますか?」
ちらりと彼がわたしを見た。
「いつ現れるかわからない君を、ああまで執拗に待ち伏せて、五億をネタに、もう一度騙す意味がわからない」
その通りだ。時任さんらにとって、わたしは全てを失った小娘なのだから。
「もし…」
やはり、五億円など、ないとする。時任さんが震えながら語った話は嘘で、丹羽社長が今も生きており、まだわたしへの執着を捨てていないのが、わたしをおびき寄せる理由だとしたら…。
思いつきを話せば、聡見さんはうーんと唸った。
「だとしても、どうやって君を手に入れる? 前とは違って、君にはしがらみがないぞ。今更、エロジジイに従う訳がない」
「じゃあ、本当に改心して…」
「そうじゃない。改心なんかじゃない。時任は、自分のために五億を返すんだ。それで禊を済まして、楽になりたいんだ。「終わりにしたい」って、奴も言っていたじゃないか」
確かに、「教祖さまが…」と幾度か口にしていた。別人のようになった今の彼は、信心のみが心の糧なのかもしれない。それは、救われたいという心の表れじゃないのか。
「だから、五億はあると思う」
わたしもそう思っていた。理由を積んだ末の答えではないが、時任さんと接しての勘だ。
不気味で不快でしかなかった。でも、圧倒されそうなほどの真剣さは確かだった。あれが嘘だとしたら、天才的な演技力だろう。
ならば、返すという五億を、受け取ろうと思った。その一番いい受け取り方を、聡見さんに教えてほしいのだ。
その意思を告げれば、彼はすぐに頷いてくれた。
「そうだな、君のものだ。いいよ、協力する。…どういう形で五億があるかだな。現金なのか有価証券か、動産や不動案の場合もあり得るか…」
「そんなに…。それは、時任さんに訊かないと…」
「電話でもメールでも、俺もつき合う。それを確認してから、安全な方法を決めればいい」
頷いて、礼を言った。
それから、と、
「受け取ったら、それを聡見さんに預かってもらいたいんです」
「は」
余程意外だったらしく、運転中にも顔を向けてこちらを見た。「冗談か? 意味がわからない。何でそんなことをする必要があるんだ?」
「まさか、本気です」
「じゃあ、何で?」
「聡見さんの判断したときに、保育園へ寄付してほしいんです。…相馬先生では、受け取ってもらえないと思って」
「そりゃ、でも…」
唸った後で、変だと言う。
「君の金だ。言わば、お父さんが遺してくれたものじゃないか。使う気になれなくても、今後のために貯金しておくとか、あるだろう」
首を振った。「今後」はわたしには、ない。
「わたしも、過去は終わりにしたいんです。…一緒です、時任さんと」
「でも、大金だ。君が離れた場所に保管しておくのも手だろ? あと、外貨や金に替えてしまうとか…」
「嫌なんです!」
感情が走り、聡見さんの言葉を遮った。自分でも大きな声が出て驚いた。こんな風に声を荒げるのは、いつ振りだろうか。すぐに思い出せないほど遠い。
「…ごめんなさい」
「悪かった。押し付けたな。確かに、君には負の遺産だ。拒否反応くらい出るよな」
何度目か、彼の手がわたしの頭にぽんと置かれた。「そんな声も出せるんだ」。
拒否反応は、過去にまみれた五億円へのものではない。この世界へのものだった。
嫌悪感はもちろんない。ここには、相馬さんや聡見さんなど親しくなった人々がいて、こうちゃんのような気にかかる子供もいる。興味を持って関われる、あの保育園という空間もあった。
むしろ、とけ込みつつあるかのようで、嫌なだけ。自分の居場所ではないと、絶対に心が相容れなかった。
「もし俺が、預かった金を使い込んだら、どうする?」
「それでも、いいですよ」
「え」
「聡見さんはそんなことしないと思うけど…、もしそうなっても構いません」
彼はため息のように吐息した。「しないよ。そんな泥棒は」。
でも、とつなぐのは、相馬さんが保育園を長く続ける意思がないのではないか、ということだった。その件は、本人から以前聞いたことがある。
少子化や地域の変化などの時代的なものに加え、後継者の不在があった。これらのことは、当然聡見さんも知っていて、それを踏まえてのものだ。
「親父の気持ちが固まっているのなら、五億は行き場がないぞ」
「…そうですね」
互いにちょっと黙った。
わたしはあの保育園が消える寂しさを感じたし、聡見さんの沈黙も、きっと似たようなものなのではないかと思った。
程なく、彼は言った。
「帰ったら、確認しよう。時任の話の裏も、ネットで探せば取れるんじゃないか」
ふつっと、感傷を切るみたいに聞こえた。わたしはその言葉に頷いた。
 
 
墓参りの翌日、意外な場所から電話があった。
昼食後のことで、こうちゃんに図書館行こうか、と話していたところだった。受話器を握る相馬さんが、硬い声で答えている。自然、意識がそちらへ向く。
「わたしが預かっています」というのが聞こえ、やはり、こうちゃんに関係する電話だと知れた。相馬さんは聞き取ったことをメモしていた。
「それで、構いません。…はい、わかりました」
通話が終わり、わたしへ向いた。小声で警察だった、と言った。
「え」
驚くわたしに頷いてから、こうちゃんを呼んだ。説明するようだ。こうちゃんはきょとんとしている。わたしも側で、小さな手を握った。
相馬さんは、落ち着いたいつもの声を出した。
「こうすけのお母さんが怪我をしたんだ。今は遠い病院にいて、お医者さんに治してもらっている」
「うん」
こうちゃんは目を見開いて、しっかりと聞いていた。命に別状があるものではないが、軽いものでもなく、しばらく入院の必要があるらしい。
「すぐには会いに行けないが、お母さんが元気になった頃、会えるそうだ」
「うん」
警察からの電話の意味も怪我の原因もわからず、なぜか遠い病院にいるという。
不明だらけで不安だが、こうちゃんは、母親に近いうちに会えるのだ。最悪の知らせではなかった。そこにほっとする。
「それまでは、先生の家にいよう。こうすけ、我慢できるか?」
「うん」
それ以上の言葉が出ないのは、戸惑っているからだろう。「お姉ちゃんもいるからね」。わたしは、顔をのぞいて背をなぜた。
こうちゃんがトイレに行った際に、相馬さんが補足して話してくれた。行方知れずだった母親は、例の「ハマちゃん」という交際男性と行動を共にしていたという。
「どうして、連絡もせずに…」
「できなかったのかもしれん。母親は、暴力をふるう男から逃げようとして、抵抗したらしい。それで怪我をしたが、男をナイフで刺してしまった」
「…ハマちゃんは?」
「かなり危ない状態らしい」
「まさか、死ぬなんて…」
「そうとも言えないようだ」




             

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