さようならの先に
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母親の方の怪我は、骨折と打撲、切り傷があるといった。こちらも決して軽傷などではない。
嫌な話だった。
警察がここへ連絡をしてきたのは、母親が相馬さんの名を出したらしい。以前こうちゃんを預かってもらった経緯から、再び融通の利く園長先生を頼る気持ちがあったのがうかがえる。
こうちゃんを連れ、外へ出た。
歩きながら、明るい顔であれこれとこうちゃんに話しかけた。こうちゃんに接するときは、知らずノアが浮かぶが、この今あの子のことは思いたくなかった。
子供とは遠く離れた場所で、それぞれの過酷に耐えている…。そんな、よく知らないこうちゃんの母親と自分との不思議な相似が、なぜか怖かったのだ。
「暑いね。帰りにアイスクリーム食べようか?」
そんな声をかけたとき、後ろから呼ばれた。振り返れば、聡見さんだった。こちらへ早足でやって来る。すぐに追いついた。
実家へ顔を出したら、出かけたわたしたちのことを聞いて、追いかけてきたらしい。帽子の上から、こうちゃんの頭を軽くなぜた。ついて行くという。
彼の独り身のような気楽さはいつものことで、もう気にならなかった。
夏の休暇の時期でか、図書館は空いていて、こうちゃんは真っすぐに子供のコーナーへ走って行った。
どんな絵本を選ぶのかと思えば、虫の図鑑を広げて熱心に眺めている。のぞけば、大きなクモの写真が載っていて、思わず目を背けた。
「面白そうじゃないか。『クモの一生』」
聡見さんがわたしに代わり、面白そうにそれにつき合ってあげている。もしこの人に子供がいたら、いいお父さんになるだろうと、ふと思う。
彼は、こうちゃんの母親の件をもう耳にしたのだろうか。子供向けの小さな椅子に腰かけ、二人を見ながら、先ほどの相馬さんの話が、頭の中を占めていく。
もし、「ハマちゃん」が亡くなることになれば、彼女はどうなるのだろうか。罪に問われることになるのだろうか。
暴力をふるう相手から逃げようとしていたというのに…。
彼女は、どうなるのだろう。
虫の図鑑を二冊眺めた後で、聡見さんがこうちゃんに言った。「お祭り好きか?」。
近くの神社で、縁日があるという。
こうちゃんは顔を笑みでいっぱいにして、
「うん」
と頷いた。それを誘いに、実家へ行ったのだという。「由良ちゃんはどう? 混むだろうけど、大丈夫か?」
「はい、それは平気です」
図書館よりお祭りのにぎやかさが、こうちゃんは嬉しいに決まっている。こんな今、イベントができたのが、ありがたかった。
駅前の長いアーケードを抜けたところから、沿道に屋台が並び出した。食べ物を焼く雑多なにおいが、熱い空気に混じって届く。確かに人が多い。通りを歩くだけで、誰かに触れそうになる。
「手をつなごうね」
わたしは、こうちゃんの手を握った。
聡見さんは、こうちゃんが口に出す前に、「あれどうだ?」と風船を勧めたり、ボールすくいを勧めたりした。
こうちゃんにとって、わたしも聡見さんも他人だ。遠慮するのがわかる。本当なら、通り過ぎる子たちのように、自分から親に甘えられるはずなのに。
わたしも勧め、こうちゃんが釣りゲームに挑戦した。嬉々と小さな竿を操っている。釣果はカラフルなクマノミのおもちゃが五つ。ビニールの袋を提げたその手を見ると、わたしが嬉しくなった。
神社にお参りをして、こうちゃんが好きそうな遊びを幾つかさせた。くじ引きで引いた変な腕輪が、細い腕にかかっている。
「すごいセンスだな」
「◎〇レンジャーだってば」
子供向け戦隊もののヒーローらしい。
「もういいのか?」
「うん、ありがとう」
「じゃあ、駅の方でパフェでも食べるか?」
「やったー」
鳥居をくぐったとき、聡見さんが知り合いに声をかけられた。会社の人らしく「次長」と彼を呼んでいた。
「あれ、今は軽井沢じゃ…」
「ちょっと用があって、パスした。じゃあまた」
手短に返して、わたしたちを促した。
駅前のカフェに入った。冷房の効いた店内の涼しさにほっとする。帽子を取ってあげると、こうちゃんは頭に汗をかいていた。ハンカチで拭いてあげる。
このカフェは、以前も聡見さんと入ったことがあった。あのときの彼は、父親の相馬さんが、保育園の土地を売る気配があるか、わたしから探るのが目的だった。
そんなに時間が経っていないのに、話すことも雰囲気も違う。
こうちゃんはアイスクリームを食べて、笑顔になっている。彼はアイスコーヒーを飲みながら、ホットのラテを飲むわたしを、おかしそうに見ている。
こうちゃんの前では、母親の件は口に出来ない。その代わりでもないが、彼の同僚との会話の「今は軽井沢じゃ…」の意味を訊ねた。
「妻の家の別荘がある。夏によく行ってた」
それが、周囲に知られるほどの家族行事だったのだ。なぜ今年は行かないのかは、訊かなかった。家庭不和の気配は感じていたから。
彼には、面白くない質問だったに違いない。頷いて応じるに留めた。
選んで、誓い合って決めた結婚のどこが、いつから歪み始めるのだろう。そして、それは修復可能なのだろうか。
相手への優しさや思いやりでは効かない溝とは、何だろう。
わたしは過去にガイのしたことで、密かに彼を許せずにいた時期がある。切り捨てられたと、深くひどく傷ついた。それでも許せたのは、彼が誤りを認めてくれたからだ。
「悔やんだ。堪らなく悔やんだ」。あの告白で、隠した彼への怒りや失望の全てを消し去ることができたのだ…。
と、聡見さんがわたしに合図をした。気づけば、こうちゃんはアイスクリームの途中で舟をこいでいる。疲れたのだろう。お昼寝をしてもいい年なのだ。起こすのもためらわれ、自分にもたれさせるようにした。
「…気持ちが離れたんだ」
「え」
一瞬遅れて、聡見さんの言葉が、問わなかったわたしへのあの答えなのだと気づく。こうちゃんへ目をやりつつ、訊いた。
「…どっちの?」
「向こうが先だな。それに気づけば、こっちもそうなる…」
「戻らないんですか?」
彼は窓を眺め、目を細めた。「どっちの、か?」。逆に訊かれた。訊いた後で、苦笑する。答えはなかった。
奥さんとつないだ手を、彼はもうほどいてしまったような気がした。彼女が緩めたから。
先日、彼は、夫婦間は理想と違い、綱引きめいたパワーゲームのようなものだと言っていた。どれだけ譲歩するか。それにより、どれだけ自分側へ強く引くか。
本当は、そんな力関係のバランスなどではなく、相手と見えない手をつなぐだけの、シンプルなことのように思うのだ。相手への愛情と信頼、中には依存や執着も混じるだろう。
それらを抱きながら、ただ手をつないでいくこと。
先に、彼の手をすり抜けたのは彼女かもしれない。でも、聡見さんは、そのまま離れていくのを許してしまったように思えた。
それは、自由をあげるのではなく、背を向けることに似ている。
視線が落ちた。瞳に涙が溜まるのがわかる。指で押さえるより前に、頬に落ちていく。
「おい、何で君が泣くんだよ」
「ごめんなさい…。馬鹿みたい」
ハンカチで目を押さえながら、おかしなことだと思った。わたしは、聡見さんの話に、ふと自分を重ねていたのだ。ガイに背を向けられる、そんな自分の姿を。
「さあ、お嬢さん、あなたの自由にどうぞ」。ガイは、簡単に、煙草でもくわえながらそう言う。彼の興味の先に、もうわたしがあることは決してなく、ただ飾りのようにそこにいるだけなのだとしたら…。
 
わたしも、きっとガイを手放す。
 
つきん、と胸を刺すほどに、その意思は強かった。
そんな悪夢はほしくない。意図しない。頭の嫌な想像を振り払うが、そのことが逆に、ひっそりとしたある観念を浮き立たせていく。
ガイの心からわたしという存在が消えれば、わたしも心の中の彼を消そう。
そんな覚悟が、わたしの中には必ずあるのだ。
 
帰り道、眠ったままのこうちゃんを聡見さんが背負って歩いた。
そうしながら、こうちゃんの母親の件を相馬さんから聞いた、と言った。
「彼女、逃げようとしていたって、聞きました。罪に問われることって、あると思いますか?」
「男の容体次第だろうな。正当防衛でも、致傷と致死じゃ、全然違う。それに、ナイフは彼女しか使っていない。そこに、計画性があるかどうかを、警察は見るんじゃないか」
母親が、ナイフをあらかじめ用意していたのなら、殺意があったとされ、正当防衛を主張するのは難しくなるだろう。そんなことを聡見さんは言った。
「果物ナイフなら、あれほどの大怪我はしないから、刃渡りのあるものだったはずだ。厳しいかもな」
重い話に、わたしはため息をついた。
相馬さんが、警察の許可が出れば、母親の病院に面会に行くつもりでいるらしい。
「こうちゃんは?」
「どうかな、その時の状況次第だな」
どうしてだろう。
彼女がこうちゃんと会えなくなれば、自分もノアと会えないままなようで、怖くなるのだ。
根拠のない恐怖だ。わかっている。けれども、必ず会えるという希望もまた、根拠などなかった。
それは、胸を圧する恐怖で、息苦しくなった。思わず目をつむった。
助けてほしい。
 
『ユラ』
 
声が届く。
それはガイの声だ。耳を通すものではなく、頭に直接伝わって響く。
 
『僕を覚えていて』
 
忘れられるはずがない。
声だけで、あなたはわたしを救ってくれる。どんなに離れていても、瞬時に彼との絆を感じることができた。二人で過ごした時間の数々の場面があふれ、心を占めた。
ただ、それらがあることを感じれば、容易いのだ。ガイの靴音、彼が指に挟む煙草の匂い…。そんなものが、耳に鼻腔に、かすかに、でも確かに届く。
生々しい刺激に、じんと胸がうずいた。
 
早く、あなたに会いたい。
 
 
気にかかっていた「ハマちゃん」の容体が安定した。一時の危篤状況は脱し、短時間の警察の聴取なども耐えられる体調だという。
被害者である彼の証言は重いが、一方で、こうちゃんの母親も、彼から重傷を負わされている。逃げ場をなくした彼女が、非常な手段を選ぶことへ、何らかの救いがあってほしいと願った。
そんな風に、少しだけ事態に動きがあった後だ。聡見さんが、ネット上の記事を見せてくれた。
それは、丹羽社長の会社の破たんとその死についてのもので、時任さんが言っていたことが、正しいことを裏づけていた。
「わたし、電話してみようと思います」
わたしから動かなくては、何も始まらない。
「…俺じゃなくていいのか?」
「側にいてもらえると、心強いですけど…」
そう言うわたしへ、彼が自分のケイタイを差し出した。今すぐ、という様子で、ちょっと驚く。




             

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