さようならの先に
29
 
 
 
 
夕立の後で、相馬さんはこうちゃんと庭へ出ていた。聡見さんは、庭へ顔を出し、「ちょっと由良ちゃんと出て来る。すぐ戻る」
そう声をかけて、わたしを促した。
外へ出て、何となく保育園の方へ歩いた。今日まで園は、お盆休みだ。園庭はがらんとしていた。破れた個所のあるフェンスに触れながら、聡見さんが再びケイタイを差し出す。
さっき持ってきた、以前渡されたメモを広げた。スマートフォンの使い方がわからず、戸惑うと、聡見さんが笑う。今どきの女の子らしくなくておかしいのだろう。
ダイアルは、彼がしてくれた。コールの始まった電話を耳に当てる。
十回を過ぎ、出ないとあきらめかけたとき、不意につながった。いつかのかすれた時任さんの声が応じた。
わたしが話すより前に、「由良さんでしょう?」。咳き込むような声が訊いてくる。
聡見さんを見た。「出た?」の声に、頷いた。
「…はいそうです」
『待っていたんです、あなたが電話をしてくれるのを』
「…あの、前に言っていた…」
『五億でしょ、すぐ返します』
早過ぎるリアクションに言葉を失う。打てば響く、というのではなく、やや病的な気配なのだ。以前の異常なありさまも思い出してしまう。この彼を相手に、話を続けるのが苦しくなる。
わたしがうろたえるのを見て、聡見さんが電話を取った。
「電話、代わりますよ。以前霊園で彼女と一緒だった者です」
その後、聡見さんは淡々と質問を重ねた。
どうやら五億円は、わたし名義の口座に入っているらしかった。丹羽社長と関わっていた時期、好きにしていいカードや銀行口座を用意されていた記憶があった。その口座を利用したのかもしれない。
「…彼女とも相談して、また掛け直します」
通話を終えた彼が、ポケットに電話をしまい、柵にもたれてわたしを見た。
「通帳と印鑑を、郵送で送ると言ってる。どうする?」
あの時任さんと、直接接触がないのはありがたいが、どこに送ってもらえばいいのか。相馬さんの自宅などはいけない。住所を知られるのは、絶対に避けたかった。
しばらく顔を見合わせ、考えた。
聡見さんが、二つ案を出してくれた。一つは、どこかのホテルに宿泊し、そこへ宅配便で送ってもらう。もう一つは、駅などのコインロッカーを使った方法だ。
「場所や時間はこっちが指定する。時任が空いたロッカーに入れたら、鍵は目立たない場所にテープで貼りつけてもらうとか…。終った頃合いに、こっちから電話をかけたらいい。でも…」
鍵が紛失する危険もある、と彼は付け足した。
確かに、鍵が誰かの手に渡ってしまう恐れもある。しかし、ホテルに泊まるなどのお金も手間も要らないし、容易に思えた。
「後は、嫌だろうが、もう一度会って、直接渡してもらうか、だな。これは確実だし、一番いいかも。俺も立ち会う」
それは心強く嬉しい。でも、聡見さんのお盆休みは今日でお終いだ。週末にまた、このために協力してもらうのは、気が引けた。
彼の自由な時間を、これ以上わたしに割いてもらうべきではない。奥さんとの不和を改めて聞き、感じたことだった。そのゆとりには、奥さんと向き合ってもらいたいのだ。
なら、わたしは、時任さんが不気味だとか不快だとか、そんな甘えた理由で彼に頼るのは止めなくてはいけない。
「コインロッカーの方法でやってみようと思います」
電話を借り、先ほどの彼を真似、ダイアルした。「大丈夫か? 代わるぞ」。すぐにでも助けを出そうとする彼に、笑みを作って制した。
電話はすぐにつながった。
「由良です。今、いいですか?」
『はい、待ってました! 住所をお願いします。すぐに書留で送りますから』
「郵送ではなく、明日、コインロッカーに入れて下さい。場所は…」
以前の自宅があった場所の最寄り駅を告げた。土地勘もあるし、乗り継ぎ駅で、規模も大きく、人目もあって安心できた。
『○○駅ですか、わかります。…前の自宅の近くですよね?』
「はい。鍵は、公衆電話の後ろ側にテープで止めておいてください。見つけますから」
昼までには完了させると、了解をもらい、電話を切った。礼を言い、電話を返す。
「時間を作って、俺もついて行くよ」
すかさずくれたその言葉に、「ありがとう」を返しつつ、首を振った。一人で行くつもりだった。
「あの辺りは、よく知ってるんです。明るい時間だし、大丈夫です」
出来る限り、きっぱりと言った。もう決めてしまったから。
聡見さんは、それでも首を傾げてわたしを見る。彼の目には、わたしは、浮世離れした頼りない女の子でしかないのだ。
「急に、どうしたんだ?」
「え」
「急いで見える」
「…それは、やっぱり早くかたをつけてしまいたくて…」
早く、自分で幕を引きたいのかもしれない。過去などどうでもいいと切り捨てていても。自ら手放すことで、やはり、意味あるものにしたいのかもしれない。
早く、早くと。
気持ちがふっと焦るのだ。
なぜか、それほど時間がない気がした。
 
 
翌日は、早めに家を出た。
相馬さんには、前日に知り合いに会うと断り入れた。「ほう」という顔をしたが、何も訊かないでいてくれた。
出かける前には、聡見さんから電話もあり、こちらはあれこれ注意が多かった。電車の乗り換えは大丈夫か。彼のケイタイ番号のメモはあるのか。防犯ブザー(夕べ渡された。子供用に思う)は持ったか。金は忘れるな…、などなど。
小学生の遠足のようだ。
借り物の帽子は、相馬さんの亡くなった奥さんのもの。それに、いつものTシャツにサブリナパンツ。スニーカー。ごく身軽な格好だ。
何度か出掛けた図書館の近くの駅から、電車に乗る。行き方は、路線を見れば、何となくわかる気がしたが、丁寧に聡見さんが調べてくれた。
少ない乗客に紛れ、ただ窓を見た。何もしない時間が、手持無沙汰だった。レース編みや刺繍など、あちらでは習慣になっている手仕事が、こんなとき恋しくなる。製作途中の、タピストリーの図案が頭にちらついた。
目的の駅には、十一時前に着いた。増えた改札や売店など、目新しいものはあるが、ほぼ記憶の通りだ。
「昼までには」終わらせる、と時任さんは言っていた。
時間は早いが、目当ての公衆電話コーナーへ向かった。覚えているより、ずっとその台数が減っていた。たったの二台しかない。お年寄りが使用していて、それをしばらく待った。
空いた電話に向かい、電話機の後ろを指で探る。一台目で、指がガムテープのようなものに触れた。一部ふくらみがあった。
あった。
爪ではがし、手のひらに鍵を落とした。
今度はコインロッカーだ。場所がわからず、駅員の人に訊ねた。自販機が並ぶ奥にロッカーのコーナーがあり、鍵の番号を頼りに目を走らせた。
何度か行き過ぎて戻る。ようやく見つけた。
鍵を差し込み、扉を開けた。中にはB5サイズほどの茶封筒が入っていた。取り出し、コーナーから出た。
何となく、左右を見る。わたしの目に、時任さんらしき姿は見えなかった。
どうしようか、と思う。目的はこれだけだ。通帳はともかく、矢嶋さんの遺書もある。その辺で読むのはためらわれた。
昼食には早い。空腹は感じなかったが、駅を出てカフェに入った。空いた店内で、隅の席に座る。ミルクティーとサンドウィッチを頼んだ。
封筒からまず通帳を取り出した。三冊ある。印鑑とキャッシュカードもそれぞれあった。
残高は、聞いていた五億円ではなく、合計で五億七千六百四十八万だ。数年に分けて、入金が繰り返されて、この金額となっている。
通帳類を封筒に戻し、次に白い封筒を取り出した。
中の便箋にはわたしへの詫びが綴られていた。そのせめての償いに、通帳の額を時任さんと共に用意し、わたしへ遺したのだとある。
『…自分の身が可愛いばかりに、お父上を裏切った。そればかりか、丹羽の興味を知り、あなたを彼への貢物のように考えていました。彼の側へ寝返ったことで、わたしの保身は保証されていたのに、念押しの添え物として、あなたを利用しました…』
読み終った頃に、オーダーの品が届いた。手紙を中にしまい、ミルクティーを飲んだ。
遠いはずの過去だが、今更知った事実にちょっとめまいがした。
まず、丹羽社長とそして時任さん、それから父やわたしをつなぐ矢嶋さん。最初から、三人が共謀してのことだったのだ。
怒りではなく、ふに落ちたという感覚が近い。騙された父とわたしが、ひたすらに無防備だったのだと、ずっと思っていた。だから、悪い奴らの罠にかかったと。
その結果は変わらない。
しかし、矢嶋さんが、彼らとの橋渡しをしなければ、無防備な父娘は追い詰められることもなかったのだ。
裏切りの理由として、自らのギャンブルによる借金を挙げていた。その肩代わりを、丹羽社長が申し出たという。その見返りが、父を裏切ることだった。
父には相談できなかったのか…。
手紙には幾度か、わたしの人生を狂わせたことを詫びていたが、一番狂ったのは、矢嶋さん本人の人生だ。父を死に追いやる手助けをすることで、自分ものち、死に追いかけられているのだから。
食事を済ませ、店を出た。
ここから徒歩で行ける場所に、わたしの生家があった。父が遺してくれた家だったが、それも燃えた。相続者もいない土地は、既に国の管理にでもなっているのかもしれない。
ふと足が向いたのは、心の中の何の名残だろう。興味があったのではなく、執着もない。ただ、目にしたかった。
十分も歩いたとき、見覚えのある住宅街の中に、その場所を見つけた。焼け跡はきれいになくなり、更地になっている。ロープが渡され、立て看板には管理会社の名もあった。
何もないがらんとした土地に、往時の面影は見出しにくい。おぼろに、玄関の位置を描くばかりだ。
真昼の住宅街で、ひと気もない。何となく思い立ち、ロープをまたぎ、中に足を入れた。
封筒から矢嶋さんの手紙を取り出した。それをまず縦に破り、横に裂き、細かな紙片にした。
それをふわりと、土地にまいた。緩い風に散って、あちこちに落ちていく。
ほんの思いつきだった。手元に置くのは苦しくもあって、簡単に捨てられない。そんな矢嶋さんの手紙を手放せる、いいアイディアに思えた。
過去の中に過去を置き去りにするのだ。誰にも暴けない。
ロープをまたぎ、道路へ出ると、年配の女性が、わたしを見咎めるようにしている。さっきの行為を見られたのかもしれない。確かに、かなり不審なはず。
軽く会釈し、そのまま背を向けた。
その背に、思いがけず、声がかかった。「…もしかして、麻生さんのところの、由良ちゃん?」。
振り返った。名を呼ばれて、薄れかけた記憶がよみがえる。近所に住む女性だった。朝夕、会えば挨拶をしたことも覚えていた。
「由良ちゃんよね? どうしていたの、火事の後…」
声に、ゆらりと首を振って返した。「違います」。
それだけで、また歩き出した。
矢嶋さんの手紙が消え、身軽になったように思う。あの重い告白の生々しさは、もうない。彼を許すも許さないも、考えずにいられた。
それは、わたしに怒りがないからだ。
父も丹羽社長も、矢嶋さんも。当時、渦中にあった人々は既にない。一人、時任さんが残るが、その姿はやはりない。
すべてが消え、まるでわたしの記憶の中にのみ、ある出来事のようだ。わたしがそれを選び続けなければ、記憶すら消えてしまいそうに思う。
それでいいのだ。
すとん、と気持ちが落ち着いた。それは、心地のいい納得で、行きついた答えのようでもある。歩が軽くなった。
早めに戻り、保育園で相馬さんの手助けをしようと思った。
往路と同じ電車に乗る。膝に通帳の入った封筒を乗せ、ふと思い立つ。電車を降りたら、お金を下ろしてみようと思った。




             

『さようならの先に』ご案内ページ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪