さようならの先に
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退屈な時間が過ぎ、ようやく駅に降り立った。駅を出て、看板で確かめた目当ての銀行に向かう。
ATMコーナーでしばらく並び、順番がきて、封筒から一つのカードと通帳を取り出した。聡見さんから借りたと同じ金額を引き出した。当たり前に三万円が吸い出されてくることに、ちょっと驚く。
ここへきて、やっと自分の自由になるお金なのだと実感できた。三万円を封筒に入れ、保育園へ急いだ。
銀行で見た時計は二時を過ぎていた。保育園はお昼寝の時間だが、その後のおやつの用意には間に合う。
無心に歩く中、見知った姿が目に入った。聡見さんだ。スーツの上を脱いだ、仕事着のままだった。
走り寄ると、「お帰り」と彼が笑った。「気になって、少し抜けてきた」と言う。わたしが朝出た時間から、帰り時間の見当をつけたらしい。
わたしは、無事通帳類を手に入れられたことを告げ、三万円を差し出した。
「これ、お借りしていた分です。試しに、さっき下ろしてみました」
「あげたんだぞ」
「ううん、使わないから」
彼は、渡したお札を胸ポケットにしまい、「嬉しそうだな」とわたしを見た。
浮立った気分が、顔に出たのかもしれない。望む金額が、ATMから引き出すことができる。久しぶりの感覚で、単純にちょっと愉快だった。
それに、すべきことをやり遂げた、ささやかな達成感も混じる。
「遺書は、どうした? 一緒にあったんじゃないのか?」
「ああ…」
読んだ後で、捨ててきたと告げた。隠すつもりもないが、元の自宅跡にまいたとは、敢えて口にしなかった。
「捨ててきた」の言葉から、不快な内容は察するのだろう、彼もそれ以上は問わない。
わたしは、通帳類を彼に預かってほしいと頼んだ。彼は頭の後ろで手を組み、うーんと唸った。
「やっぱり、金額が金額だしな…」
「たんすの引き出しに入れてくれたらいいですから」
そこで聡見さんがふき出した。「好きに使ったら? 自分の金だろ。思い切った贅沢してみるとか」。
ここまでの協力はしてくれたが、実際に多額のお金が絡めば、責任も生じる。それを持て余す気分になったのかもしれない。簡単に考えていたが、大きな迷惑をかける可能性もある。
「豪華客船で世界一周はどうだ? 若い女の子の趣味じゃないか…」
「…一人で?」
「じゃあ、俺もついて行ってやるよ」
「…その時期が来たら、ぜひお願いします」
彼は、ぽんとわたしの帽子の頭に触れ、
「そんな時期、絶対来ないと思ってるだろう」
と笑った。つられて、わたしも笑う。
「本当に欲しいものはないのか?」
使い道など途方もない。
けれども、助けられてばかりいるわたしが、お金を使うことで、その優しさに報いることができのではないか。そんな思いは、気持ちを明るくするのだ。
「これだけの額があれば、親父のところなんかで居候しなくたって、十分自活できるだろう?」
返事に困った。
わたしには、こちらでの「今後」の計画などない。できるだけ迷惑をかけないよう、相馬さんの厚意に甘えることしか頭になかった。その延長上に、保育園への寄付もある。
「悪い」
こちらの沈黙を、気を悪くしたとでも、取ったようだ。わたしは反射的に首を振った。
しかし、想像以上にこの世界での生活が長くなったら? 一年、二年、ううん、五年ほどにもなるのなら? 
その先は考えるのが怖くなる。
いつまでも、相馬さんの親切に甘えて厄介になる、今のような仮の生活は、難しくなるかもしれない。
聡見さんが口にした「自活」の言葉が、重みを増して迫って来る。相馬さんのもとを出て、どこかで自分なりに暮らす計画を、わたしは考えるべきなのかもしれない。
自分に何ができるのかわからないし、何をしたいとも思わない。けれども、それでも一人で何とかしていくのが、自活というものなのだろう…。
迎えを待つ時間の長さを思えば、恐ろしさに胸が苦しくなる。その怖さに、実際的な問題をすり合わせるのだ。痛みつつもそうすることで、自分の取るべき道が見つかるような気がした。
「由良ちゃんが、あの保育園に興味を持っていて、そのために、金を寄付してくれるというのは、俺もありがたいし、嬉しい。…もし、そこに君のこれからがあるのなら、俺は、多額の寄付もすんなり受け取れるような気もするんだ」
「え」
わたしは、隣りを歩く彼を見上げた。彼は、わたしを真面目な目で見ていて、こちらの目と合うと、しばらく見つめ、じき前を向く。
「君に、これからも保育園に携わっていく意思があるか?」
「それは、お手伝い程度なら…。わたしは資格もないし…」
「保育園の経営に、資格は要らない。そうじゃなくて、君があの保育園をやっていくつもりがあるかを、訊いてるんだ」
「え」
「子供好きそうだし、扱いも丁寧で優しい。子供に関わる仕事をする適性はあると思う。親父が、あそこを閉めるつもりでいても、君が継げばいい」
言葉が返せなかった。思いがけない提案で、何も考えられない。無意識に、ちょっと首を振る。
「そんな、わたしには…」
「もちろん、すぐには無理だろ。何も、一人でやれと言ってるんじゃない。俺だって手伝う」
「聡見さんには仕事があるでしょ。 お家のことだって…」
「べったりついてなきゃならないのか?」
と、そこで笑った。
「人と会うとか、大きな決め事なんかにはつき合うよ。親父だって、困った君を放っておかないだろうし」
すぐに決断のつく問いではなかった。責任が、わたしの肩には重過ぎると思った。同じく、ガイならきっと、こう言って笑うだろう。「あなたには少し荷が重いようだ。どれ、僕に貸してごらんなさい」…。
ただ、保育園に関わるのは楽しいと思う。相馬さんの家で寝起きし、自分に出来る手伝いをし続けるのは当たり前で苦でもない。まだしばらく、この生活を続けられると思えば、ほっとするのが本音だった。
今のわたしに出る答えは、これが限度だ。
聡見さんの望むものではないと思いつつ、口にする。
「…それ以外のことは、考えられないんです。でも、一年とか期限を切ってもらえれば、それまでに、どこかへ移ることを決めますから」
「おいおい、親父の家を出て行けとか、言ってるんじゃない。好きなだけいたらいい。俺が知りたいのは、由良ちゃんに、この先も保育園に携わる気があるか、ということだ。跡を継ぐとか経営とかは、今は抜きにしていい」
ある、というのなら、わたしの寄付を受け取れるのだと、彼は言う。
「この先…」
確たることが、何一つ言えないことがもどかしい。すぐ先の未来が、わたしには約束できないのだ。指先で目を覆った。
つれて、歩が止まる。「ちょっと追い詰めたか? 悪かった」。
首を振った。彼が謝る非などない。いけないのは、あやふやでふわふわしたわたしの存在だ。
「…どこにも行くところなんかないし、こんなわたしをもう誰も待っていてくれないし…、何もなくて…。お金ばっかりあっても、どうしていいか…」
ふと、再会した時任さんのあの姿がまぶたに浮かぶ。あわれなほどのあの様子は、見てくれこそ違うが、わたしのここでの本質と変わらないのではないか。
先もなく、あてもなく。消したい過去があるばかり。
聡見さんの手が肩に触れた。それに我に返る。
「正直に言う。俺は、君と、由良ちゃんと保育園をやっていけたらと思ってる」
「え」
彼は、部外者の立場でもあり、もう状況が許さなければ、保育園が消えていくのは、仕方がないことだと思っていたという。
「そう思おうとしていたのかもな。もっと若い頃は、違うことをやりたかった。…それで、今の会社に入ることになるんだが、考えていた状況とは全然違う。…それでよかったのか、このままでいいのか、ずっと迷ってきた」
頷きもせず聞き入りながら、彼のその心情の底には、家庭の問題が根強く絡むのだろうと思った。社長令嬢である奥さんとの不仲は、もう会社での彼の立場に影響を及ぼしているのかもしれない。
「責任もあるし、すぐに仕事を放り出せる訳でもない。でも、徐々に整理して、身を引くことは出来る。…そうしたいんだ」
「…お父さんに、この話は?」
「いや、五億の件も話していないし。君の答えを聞いてから、と思ってる」
聡見さんのこれからを左右する事柄だけに、安易に返事は出来ない。わたしが寄付するという五億円が、彼の意志を強めたのかもしれない。
事業として、どれだけ活きる金額か、わたしにはわからなくとも、彼には保育園での有効な使途が、既に明確になっているように感じられる。
黙ったままのわたしに、彼が軽い口調で言う。
「仕事も家庭も面白くなくなって、逃げ出したがっているように見えるか?」
「そんな…」
これからを変えたいとき、今の場所から逃げることも去ることも、いいのではないか。変えたいと願いつつ、その場に留まり続けることこそ、ある意味、自分から逃げていることにならないだろうか。
いずれも逃げることなら、判断にいいも悪いもない。そんなことを思った。
ただ、選択を悔やんでほしくないのだ。
「…後悔しませんか? 未来の社長候補でしょう?」
「そんなの、このままいったらボツだ」
「え」
「離婚をちらつかせる相手に、こびへつらって、何とか夫婦を続けることは、出来るかもしれない。そうやって我慢の先に社長になっても、一族経営の会社で、俺は婿のままだ。自由なんかないよ」
彼の中で、もう意志は固まっているようだ。
なら、わたしの「この先」など重みはないはず。大したことは出来ない、を前置きにして、言葉をつないだ。
「今までのようなお手伝いでいいのなら、わたしも聡見さんに協力したいです。五億円のいい使い道を考えて下さいね」
「君は本当に欲がないな」
「金の亡者の行く末は、惨めですから」
「修羅場をくぐった由良ちゃんの言葉は重みがあるな」
「全部成り行き任せ。本当に修羅場を感じたのは、火事から抜け出したときだけです」
「それ、どうやって逃げたんだ? 時任も言ってたけど」
「…空から縄梯子が下りてきて、王女様が手を差し伸べてくれたんです」
「は」
「そのまま、かわいそうな女の子は、王女様の世界に行って、めでたしめでたし…」
そう言って、わたしはきょとんとした彼へ、問いを打ち切るように封筒を差し出した。
「五億円で、何ができますか?」
ちょっと虚を突かれたような彼は、封筒を手に持ち、
「まず一つは、破れた園庭のフェンスかな…」
と、目をさまよわせた。「次は…」。
「今の施設を少し改造して、放課後の学童保育に利用できないかな、と思う。共働き世帯も多いし、需要はあるんじゃないかな」
やはり、様々なビジョンはあったのだ。相槌を打ちながら聞く。
「それと、こうすけみたいな子供の一時預かり所になれないかな、とも思うんだ。短期に限るけど、これは役場と応相談になるな」
聡見さんは明るいまなざしでわたしを見た。未来に期待する、そんな表情をしている。そんな目は、見ていて嬉しくなるのだ。
「こんなのは、久しぶりだ。中学の部活の合宿以来だな。ちょっとわくわくする」
「うまい儲け話に騙されるときも、きっとわくわくしますよ」
「あのな…」
彼は、肘で軽くわたしの腕を突いた。「君の浮世離れした頭のどこから、そんなセリフが出て来るんだ?」
あきれた声を出す彼へ、わたしも少し笑って返す。「金の亡者を見てきましたから」。
どこまでかが真実で、どこまでかが嘘。ときにきわどい、そんな軽口を気軽に叩けるのは、きっと聡見さんだからだ。
この彼には、気楽に言葉が発せられる。これまでの経緯や、過去をさらけ出した開き直りも、気持ちを開く理由だろう。
ガイにだって、これほどの気安さはないのに。その違いを心の中に探れば、どう思われてもいいという、砕けた気分の自分がいるのに気づく。
捨て鉢な投げやりではなく、許されることを期待した安堵に近い。知らずに、わたしは、彼に甘えているのだろう。
たとえば、架空の家族のように。




             

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