さようならの先に
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新たに邸にやって来た人物は、ソウマタカツグ、と名乗った。名字のソウマは相馬であろうか。訊ねればそうだと頷いた。
「あの、ガイといった人がやって来て、目が合った途端、何か頭がぼんやりとした…」
早朝到着したのち、仮眠を取った昼過ぎに、わたしが自分で部屋に食事を運んだ。食が進まないようだった。コーヒー・紅茶、ハーブティーとされるもの、もしくは冷やした果汁。食事は完全に洋食だ。止まるスプーンを見ながら、悔やんだ。もっと好みそうなものを用意させるのべきだった。
ガイはこの日、顧問を務める軍部に出かける予定があるが、午後からでよかった。それでもこちらに顔を出すには遠慮した。「お嬢さんの方が、気楽なのだと思う」という。かもしれない。
わたしたちは、同じ髪と肌の色を持ち、そして同じ文化になじんで暮らしてきた過去がある。そして、互いにあの懐中時計の鏡に映り合ったのは、絶対的な共通項だ。
「あのガイという人が、ひと月だけここで堪えてくれれば帰れると言ったが、本当か?」
皺を刻んだ少し焼けた肌色、眼鏡の奥の瞳は怯えが濃い。無理もない反応に、わたしは微笑んで応じた。当初どれだけ不安であっても、こちらで過ごす日々は決して不幸ではないはず。
「はい、こちらに残るのも帰るのも自由です。その間に色々考え…」
「考えるまでもない」
吐き捨てるように告げられ、少なからずショックだった。その気持ちをすぐに消し、わたしは彼のぬるまったお茶を捨て、新しいものを入れた。空いた、ティーカップでもない器に、自分のお茶も入れ、両手で抱えるように飲んだ。少し落ち着く。
「相馬さん、こちらでは申し訳ないのですけど、わたしの叔父ということにさせてもらっています。現在わたしの父となっている人も、会ったことはないのですが、ここにあちらからやって来た人なんだそうです」
「その人も、ガイとかいう人が連れて来たのか? それで、あんたも?」
頷けば、相馬さんはスプーンをトレイに放り投げた。「人さらいじゃないか」唸るように言う。
「それでここに縛りつけて自分の嫁さんにしたのか? あんたみたいな若い娘を。信じられんな、まったく…!」
「そうじゃないんです。そうじゃないの」
わたしの声はまだ届かない。異常な事態に興奮し、何も耳に入らないだろう。聞こえてもこれまでの常識がそれをかき消してしまう。わたしはしばらく黙って、ただお茶を飲んだ。ガイとの遅めの昼食の時間が迫っていたが、いつものそれよりこちらが大事に思えた。
思い立ち、呼び鈴を鳴らした。程なくノックがされ、メイドが現れた。その彼女へガイに食事を先に始めてほしいと伝えてもらう。
メイドが去り、わたしは空いたカップをトレイに戻した。妙な静けさが二人の間にある。共通するものは多いのに、それにしがみついた相馬さんと、そのことを過去にしてしまったわたしと。
今は何を言っても意味を成さない。この人は、あちらの世界に大切なものを幾つも残しているのだと、ふと感じる。
唯一、重みのあるだろう言葉を選んだ。
「ひと月、我慢してください。それでお帰りになれますから。必ず、帰れます」
ゆっくり食事をして下さい。とわたしは椅子を立った。また顔を出しますね。と言い部屋を出た。
 
相馬さんが邸に来て、五日は部屋に閉じこもったままだった。その間、わたしは折に触れ訪れ、話し相手になった。始め、質問攻勢にあったが、それが尽きれば自分のことを話してくれるようになった。
年齢は六十五歳、住まいはK県の○市。結婚した息子が一人あり、仕事は長く保育園を経営している…。
「まあ、先生なんですか」
「面倒を見ることもあるが、専ら経営だよ。市役所や保健事務局とのつなぎ役だな。昔は二百人を超えた子供も、今は五十人ほどに減って寂しいもんだ」
「そう、それでも多いです。全国的な少子化が問題だって、ニュースになっていましたね」
「ユラさん、あんた、伯爵夫人が、少子化を知っているのか?」
「五年前は伯爵夫人じゃないです。普通の学生でした」
なぜかそこで相馬さんは笑った。
「少子化もあろうが、近くに立派な幼保園ができたのと、土地の買収の噂がでかい」
「え」
地元の有力企業が都市開発と銘打ち、大々的に土地の買収を始めているとのことだった。そのため、買収にあい、いつ閉園するかもしれないと噂の立った私立の保育園には、保護者も敬遠しがちになるのだという。
「保育園をお辞めになるんですか?」
「事情が許さなければ、仕方ない。もうわたしも年だし踏ん張ってもしょうがない。辞めるなら辞めるで、早く決めないとな。通ってくれている子供らや、親御さん、うちの保母さんらの事ばかり思うよ」
軽く相槌の打てる話題ではなく、頷くに留めた。ふと思い出し、
「でも、息子さんがいらっしゃるのでしょう?」
「ああ、あれは駄目だ」
と手を振り、にべもない。触れられたくない話題のようだった。
ガイのことを偏見に満ちた目で見ていた相馬さんも、幾度か会い、態度を軟化させた。ガイは、わたしから彼が保育園の経営をしてきた、幼児のエキスパートであると聞くと、彼を「先生」と呼んだ。わたしの父であると通しているフィッツ博士の弟なら、「先生」は相応しい。
ガイとの間に生まれたノアを会せれば、子を抱き、可愛がってくれながら、
「ユラさんは、勇気のある人だ」
とおかしなことをしみじみ言う。わたしに、勇気ほど不似合いな言葉はない。こちらから一度帰った際、わたしが逃げ惑うように過ごした日々のことは、相馬さんには打ち明けていた。あんなことをしでかしていたわたしに、何の勇気があると言うのか。遠慮や社交辞令かと、ちょっと笑った。
「何がおかしい?」
「だって、わたしはそういう人間じゃないんです。いつもガイに頼って、甘えて…。自分がないんです」
「それだけ、あの伯爵を信じているんだろう。それでこっちを選んだんだろう。それは大層な勇気だよ。わたしには、とても…」
「居場所がなかったんです、あちらには。どこにも」
あったのかもしれないが、見つけられなかった。その力も気概もなかった。寂しい言葉だが事実であり、そして今のわたしには遠過ぎる過去だ。だからもう尾を引くほどの辛さはない。
相馬さんはわたしをふと眺めていた。子供に長く接してきたと感じさせる、優しくそして厳しさのある視線だった。「先生」という職業の人には、こんなまなざしがあるものなのかもしれない。向けられるこちらが、すっと背筋を伸ばしたくなる。
「確かに、居場所を持たないような子はいる。どうしようもないような不憫な子も、中にはいる」
だが、と彼はつないだ。
「あんたはこんな可愛い子を持てて、今がある。立派にここに、自分の居場所を作った。それが全てだ」
「だと嬉しい」




             

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