さようならの先に
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夏が過ぎようとしていた。
こうちゃんの母親が、保釈されることになった。
彼女は、「ハマちゃん」を刺した直後に逮捕されていたが、彼女自身怪我を負っていたため、入院の措置が取られていた。
退院後、警察での勾留がしばらく続いていたが、いきなり保釈が決まった。不起訴となり、すぐにでも社会復帰が可能となったのだ。
酌量の余地があっても、重傷を負わせている。収監に執行猶予の付く、「せめて実刑じゃなければ…」と、相馬さんがもらしていた言葉だった。重い刑になれば、こうちゃんとは会い辛くなる。
流れが変わったのは、「ハマちゃん」側が、示談による事件の決着を促してきたことだ。
「要するに、金で黙ってやるってことか」。これは聡見さんの言だ。
お金ならある。
そこから、話は早かった。相馬さんにも相談し、彼女の意志を訊ねた。任せてもらえるのなら、お金の心配はしないでいいと、伝えてもらった。
承諾をもらい、すぐに弁護士を立てた。こちらは、わたしがタウンページで探そうとしたのを、聡見さんが知人の弁護士を紹介してくれたのだ。
プロ同士の話し合いは早く、一度の面談で終了してしまった。「ハマちゃん」側が示談に応じた金額は、七百万円だった。
「高い! あいつにも非があるだろ」。これも聡見さんの言葉だ。高いか安いかの判断はつかない。けれども、相手は命を落としかけたのだ。
「最初は三百万だったろ。こっちが弁護士立てて、金があるそぶりを見せたら、途端に増額だ」
「それで許してもらえるなら、いいじゃないですか。お金を惜しんで、示談が延びたら、どっちも損でしょ」
「由良ちゃんは、虫も殺さないって顔して、札びらで頬を叩くのが上手いよな」
これには、相馬さんが大笑いした。
こうちゃん親子の問題に、他人のわたしが介入し過ぎているとは知っていた。しかし、示談による、彼女の不起訴の可能性を聞いたときから、見過ごせなくなってしまったのだ。
全ての身近な悲劇を、わたしが父の遺したお金で救うなど出来る訳がない。相馬さんにも、これは諭された。「情はあっても、線引きは必要だ」と。
それに、わたしはこう返した。「こうちゃんが、わたしに関わってくれたから」。
浅はかな親子への同情と憐憫に、人を救えるのだという、優越感が混じり合ったもの。それが本音だったと思う。
そんなことは、相馬さんには読めていただろう。だから、わたしの言葉は、きれいごとに響いたに違いない。
なのに、それ以上の説得も反対もなく、好きにさせてくれた。
こうちゃんの母親が、子供を迎えに保育園にやって来た。久しぶりに会う彼女は、事件や怪我や、その後の勾留の疲れのためか、少しやつれて見えた。
しかし、こうちゃんを前にすると、本来の年齢相応の若々しい笑顔になる。きれいな人だった。「ハマちゃん」が、別れたがる彼女に、暴力をふるってでも執着したのがよくわかる。
空いた教室で、相馬さんと担任の保育士が、彼女からの話を聞いた。わたしは同席する資格もないが、聞くことを許してもらった。
相馬さんへ礼を述べた後、彼女はこの街を離れ、遠方の祖父の許を頼ることにしたと言った。
「そうすれば、あの人も追って来られないから」
交際時の「ハマちゃん」による暴力と子供への虐待疑いから、今後彼女への接触を拒絶する旨を、弁護士を通じて伝えてある。それも、高額な示談金を支払う理由の一つになったのだ。
しかし、法的措置でもなく、必ず守られるとは限らない。今後の二人の安全のために引っ越すことにしたという。
あっけなく決まったこうちゃんとの別れだが、子供にとってベストな選択だ。
再度礼を述べ、辞去する際に、彼女が訊いた。
「弁護士さんにも、教えてもらえなかったんですけど、お金、誰が払ってくれたんですか? すごい大金だし…、返さなくてもいいって…」
表情は明るいが、不思議な幸運にまだ戸惑っているようだ。
「わたしらも直接は知らないんだ。…まあ、篤志家だと思って、気軽にいただいておくのがいいよ」
そこで、相馬さんが、わたしへの合図か、こちらを見て瞬いて見せた。
手を振るこうちゃんを見送り、ちょっと切なくなった。きっと多分、もう会うことはない。けれども、それはお互いにとっての幸福なのだろう。
 
お仕着せのように着ていた、Tシャツとサブリナパンツでは肌寒くなり、同じファストファッションの店で、トレーナーとジーンズを買って来た。
「若い女の子なんだから、もっと着るものを選べよ」
さっそく、聡見さんから苦情が届く。Tシャツと同じで、キャラクターがどんと大きく載っている。
「このクマ、流行ってるみたいで、売り切れ間近でしたよ。色違いで、二枚も買いました」
毎日着るものが決まっているのは、とても楽なのだ。選ぶ時間も手間も要らない。
服の好みもあるし、お洒落の楽しさもわかるつもりだが、実のところ、わたしは、こんな不精な人間なのかもしれない。
本格的に季節が移る。
その頃、園庭のフェンスの工事が入った。相馬さんには聡見さんが、わたしが寄付する五億円の件と、彼が園をやっていきたい意志を伝えてあった。
相馬さんからの反対はなかったという。長く息子の公私共の生活の様子を眺めて、思うところもあったのだろう。「後悔しても知らんぞ」。それが返事だったらしい。
寄付の件で、わたしへは、「ありがたく使わせてもらうが、考え直したときは、すぐに言ってほしい」とあった。
その一部が、まずは破れた個所が目立ったフェンスの工事に使われたのだ。
園庭遊びの後で、砂が教室前のすのこに散っていた。わたしがそれをはいていると、工事を眺めていた相馬さんが、聡見さんが離婚協議に入ったと言った。
その言葉に、ほうきを持つ手を止めた。
「そっちの決着がつけば、会社の方も年内には辞められるらしい」
「…そうなんですか」
「あれが、あんたと一緒に園をやっていくと言っていたが…」
相馬さんはガイを知り、わたしの本当の事情も知っている。約束など出来ない身だということも。
はっきりとイエスの答えは言っていないが、聡見さんが、そう取れるような言い回しを選んだのは事実だった。
そう答えなければ、彼は寄付を受け取ろうとしてくれなかった。それもあるが、行き場のない自分の保身のためもある。その罪悪感が、相馬さんの言葉にじりじりと浮かぶ。
「すみません、適当なことを言っているのはわかります。でも、いる限りはお手伝いさせてもらいたい気持ちは本当です」
「謝ることはない。本当のことを言ったって、あれが信じるとは思えんしな。経験者じゃなければ、わからんよ。きっと担がれた、と怒り出したんじゃないか」
「はい…」
「なあ、由良さん」
相馬さんは、ちらりとわたしを見てから言葉をつないだ。「迎えが来る気配はあるのか?」
わたしは、首を振って答えに代えた。
以前だったら、きっと問われるだけで、胸が苦しくて堪らなかったはず。
今は、それほど苦しまないでいられた。
一度目の帰郷とは違い、あちらの世界からの迎えを、無理に信じ込むのは止めようと思ったのだ。日々が長くなるにつれ、その思い込みは、心を苛んでいく。わたしはそれをよく知っていた。
ガイが、変わらずわたしを求めてくれるのなら、重なり合った一つの願いは、必ず叶う。わたしの意図は、その一つのみだ。
もちろん、不安がない訳ではない。怖さに押しつぶされそうになる瞬間もある。けれども、それらの恐怖に向き合い続けて、散々に傷ついたのは、過去の話だ。
不安や迷いで、ぐちゃぐちゃな心でもいい。
心を澄ませば、彼の声がするから。
それで、不思議と気持ちが落ち着いた。そして、目に見えない未来と戦うのは止めて、この世界を感じようと思うのだ。
たとえば、今側にいて、わたしへ何かを話そうとしている相馬さんを。
涼しい風が吹き、園庭の木々を通り抜けていく。
「愚問かもしれんが…、こっちに残る気は一ミリもないか?」
「…子供がいます。わたしはあの子の、ほんの赤ちゃんの頃しか知らない…」
「やっぱり愚問だったな、気にしないでくれ」
「いえ。でも…」
業者の人に呼びかけられ、相馬さんは、フェンスの工事を見に去って行った。ほうきをまた動かし始める。
帰りたいと思う、願い。わたしのそれ一つでは、足りないのだろう。
靴箱から片方ぽろんと落ちた、小さな外ズックを元の場所へ戻す。こんな風に、簡単に一つになれたらいいのに。
もう違うのかな、と不安がうずく。日々が過ぎ、わたしの不在など、いつの間にか別の何かが埋めていくだろう…。
彼がそれでいいのなら、わたしはそのことを責められない。
ただ、彼の全てにさようならを告げるだけだ。そこには、当たり前にノアも含まれる。それらが皆、わたしの新たな過去になる…。
ちらりと思うだけで、胸がきつく痛んだ。
相馬さんが戻ってきて、わたしへ訊いた。「さっき、何か、言いかけなかった?」
「え、ああ…」
わたしは、ちょっと笑った。
「…もし、帰れなくなったら、ずっといてもいいですか?」
相馬さんが破顔し、何度も頷く。「当たり前だ。あのうるさくてでかいのも喜ぶよ」。
聡見さんのことだ。
「ありがとうございます」
わたしが望まない、また別の未来は、こんな風に造られていくのかもしれない。優しい人々と触れ合い、日々の仕事をこなし、平穏にときが過ぎていく…。
大きな心の喪失は、いつか癒えるのだろうか。
ふと、自分の思いが迷路のような不安をさまよう様に気づく。軽く首を振り、息をつく。
 
『ユラ』
 
頭に入り込んでくる、ガイの声だ。
わたしを呼ぶ、あなたの声。
それだけで、波立った心が凪いでいくのがわかる。
自ら不安を生み出し、それに揺れて、慣れた悲しみに浸る…。一連の行為は、観客のいない一人芝居だ。
スクリーンに映るわたしのそれを、一人飽きずに見つめ続けるのは、もう一人のわたしに他ならない。
わたしだけが、わたしのために演じ続けている。
何のため? 
誰のため?
いつまで繰り返すの?…
それらの答えも、きっとわたしなのだ。
わたしは、もう気づくべきなのかもしれない。




             

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