さようならの先に
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振り返った園庭には、新しいフェンス越しに、昼間のにぎやかさが今も残るようだ。
この日は、保育園の運動会が行われた。園児も少なく、規模はささやかなものだが、保護者も多く参加し、和やかな雰囲気に終始した。
職員が総出で片づけを行い、保護者の協力もあって、昼過ぎには散会となった。職員は残って、反省会などを行い、それも二時にはおしまいになった。
その帰り道だ。
隣りの肩にタオルを下げた聡見さんが、「由良ちゃんは、もうちょっと、鍛えた方がいいぞ」と笑った。
参加した借り物競争で、わたしが、つまづいて派手に転んだことをからかうのだ。転んだだけでなく、ぼうぜんとしたわたしを園児が助け起こしてくれたのだ。
「運動会の見せ場だったな」
「盛り上がったでしょ。考えてのことです」
などと冗談で返した。
運動など久しぶりで、走るだけで足ががくがくとした。本当に、少しは身体を使うことを考えた方がいいようだ。
聡見さんはこの日、園の運動会に手伝いに出てくれた。まだ年内は会社に席はあるが、あとは、有給休暇を消化する形で、今月いっぱいまでの出社になるといった。
記入済みの離婚届は、奥さんの手にあり、彼女の好きなとき、届け出ることになっているらしい。
十一月の初めは、運動会には遅めだが、日中は日差しもあり涼しく、屋外の催しには最適の天候だった。
実家に停めた車に乗り込みながら、聡見さんが、再び誘う。夕方から、保護者の有志を集めた、彼の歓迎会があるのだ。その保護者の一人は、幼馴染の同級生だとか。
わたしは首を振った。ここ数日間の運動会の準備や本番の緊張などで、疲れていた。それがなくとも、保護者の人たちとにぎやかに交わるのは、やや気後れがする。
「由良ちゃんも、園の新しいメンバーだろ、来ればいいのに。「あの若い先生は誰だ」って、噂になってるんだってさ」
「お手伝いさんだって、説明して下さいね。副園長さん」
その呼びかけに、彼はちょっと照れ臭そうに笑う。年が明ければ、正式に保育園で働くことに決まっていた。
園児の数も減り、副園長のポストは、数年空いたままになっていたらしい。しかし、相馬さんの不在時の対応に、やはりそれを補ってくれる存在はありがたいらしく、職員の求めで、彼がその任に就くことになった。
「…動いてみれば、早かったな」
そうつぶやいて、ドアが閉まる。彼がエンジンをかけた。多くを語ってくれないが、会社を辞める際のややこしさもかなりあったようだ。彼の場合は、婿養子だから、尚のことだったはず。
全てがひと段落した今、そんな感慨がふっとわくのも、自然なことに思う。
ウィンドウを下げ、見送るわたしへ、彼がまたまた歓迎会に誘う。
「気が変わったら、電話して。迎えに寄るから」
「何度目ですか、もう」
手を振って見送り、わたしは家に入った。
相馬さんは、まだ園に残っていた。入園希望の保護者との面談があると聞いている。
新しく園児も増えることになりそうだ。聡見さんと園のこれからに幸先がいい気がして、気持ちが明るくなった。
台所で手を洗い、水を一杯飲んだ。ほっと息をついてから、庭の洗濯物を取り込んだ。それらを畳み終える頃、相馬さんが帰ってきた。
「お帰りなさい」
出迎えついでに、面談の話を聞く。一歳と三歳の子供を、来月から預かることに決まったという。
「みさきちゃんにお友だちができますね」
これまで、赤ちゃんと言っていい子供は、園にみさきちゃん一人だったから、嬉しい新入生だ。
「うん、それで、乳児担当の田所さんの手伝いに、由良さんもついてくれると助かるよ」
「はい」
これまでも手が空くと、子供の世話を手伝って来たが、赤ちゃんが増えれば、忙しくなるだろう。
「あんた、鏡を見ておいで。顎のところ、転んですりむいてるよ」
「え」
指摘され、指で触れるとちくっとする。転んだ際、すりむいたのは手首だけだと思っていた。そっちは絆創膏をもらい、手当てしてあった。
玄関を上がってすぐに、姿見がかけてある。その前に立った。まっすぐではわからない。少し顔を上げるとすり傷がわかる。それも大したものではない。
鏡に背を向けるとき、違和感があった。振り返る。目の錯覚だと思ったが、違う。確かに鏡に映るわたしが揺れている。
なぜ?
怖さを感じるより、驚きと興味が勝った。指を伸ばして鏡に触れた。つるんと冷たく指に返るはずの感触がなく、わたしの指は、するりと鏡の中に溶けるように入って行くのだ。
「あ」
慌てて指を引く。鏡面の揺れは激しさを増し、すぐにわたしを映さなくなった。揺れが消え、暗いもやのようなものがそこに広がるのを、わたしは、ただ息を詰めて見つめていた。
これは…。
もしかして…。
もう一度、鏡に指を触れた。やはり、すっとわたしのそれをのんでいく。そのまま手首までを、委ねるように中へ沈ませる。
そのとき、何かが指先に触れた。
「あ」
今度は指を引かなかった。そのまま、暗いもやの中で指を探らせる。
やはり、触れた。
触れたそれが、わたしの指を握る。これは人の手だ。もやの先にあるのは、誰かの手だった。
わたしは、はやる気持ちで鏡に顔を寄せた。ぎゅっと目を閉じ、もやの中に顔を埋める。
目を開けたそこには、夜が広がっていた。遠くの星が、点々と瞬くのも見えた。
「ユラ」
すぐ近くに声がする。ガイの声だ。
顔をそちらへ向けると、彼の姿が見えた。ガイが伸ばした腕の先、その指がわたしの手を握っていた。
「こちらへ」
そのまま、身体ごともやの中に入り込む寸前で、はっと気づく。わたしは声を出した。「待って」。
「少しだけ待って、すぐ戻るから」
「急いで」
彼の声は急いていた。時間が限られているのかもしれない。
わたしは使わせてもらっていた部屋へ行き、懐中時計とここへ来る際着ていた衣装、それに指輪を腕に抱えた。急ぎ足で相馬さんの姿を探す。
縁側で、新聞を読んでいた彼は、わたしに怪訝な目を向けた。「どうした?」
「今、迎えが…。鏡の中から…」
絶句した相馬さんは、程なく静かに立ち上がり、わたしを鏡にと促した。わたしは暗く沈んだままの鏡の中に、彼にわかるよう指を差し入れた。
その様を見て、相馬さんはすべてを理解したようだ。荷物を抱えたわたしを、やんわりと抱き寄せて、軽く背を叩いた。
「由良さん、よかったな。伯爵と仲良く、元気でな…」
その言葉に、涙が両の目からほとばしるようにこぼれ出す。
わたしは、この人と別れるのが悲しいのだ。ガイのもとに帰れるという大きな嬉しさとは別に、こちらの暮らしとの決別は、わたしをこんなにも切なくさせるのだ。
寄付の件は、もう片付いていた。わたし自身が園の口座へ入金を済ませ、いつでも好きに使ってもらえるようになっている。わたしが、ぜひにとも果たすべき役割は、それが全てだ。
「…聡見さんに、お別れも言えなくて…」
「大丈夫、大丈夫。あんたは心配などしなくていい。わたしが上手くやっておく」
さあ、と腕を解き、彼が促した。
「ありがとうございました…、それしか言えなくて…」
「こっちこそ、ありがとう。あんたのおかげで、毎日がそれは楽しかった」
 
さようなら。
 
涙ににじむ目で、相馬さんを見たのが最後になった。
もやの中に身体を触れさせると、心地よいほどにわたしを吸い込んでいく。
ガイは、空から降りる縄梯子の中程にいた。片腕をわたしへ伸ばしている。そのずっと上に、煌々と明かりが灯る列車がうねり、停まっているのが目に入る。夜目に、輝くネックレスのようにも見える、あの姿だ。
月光に浮かぶ、彼が差し伸べる手や、少し細めてわたしを見るまなざし。風で乱れた髪をうるさそうに振る仕草…。
それらの光景は、まぶしいほどに鮮やかに目に焼きついて映った。まるで、切り取られた写真のように、心の奥の記憶に結ばれるのを感じた。
どこかでわたしは、これと同じシーンを知っている。
その刹那…。
 
あ。
 
瞬くほどの後で、そうではないと気づく。
再び触れたガイの手が、今度は強くわたしを引いた。ふわりと身体が浮く。
一瞬後に、わたしは彼の腕の中にいるのだ。
「お嬢さん、僕にしっかりつかまっていて」
返事より前に、大きく梯子が揺れた。わたしは慌てて彼にしがみついた。上昇する最中も、振り回されるように、縄梯子は揺れ続けた。
「怖いでしょう、お嬢さん」
すぐ耳元に彼の声がある。「ううん、ガイがいるから」。
虚勢ではなくそう思った。彼の側にいることが、わたしを心から安堵させるのだ。
「こんなに揺れるもの?」
「いや、これは僕も経験がない」
彼のコートの裾が、揺れに大きくはためいた。見上げれば、頭にいつもの帽子がない。落としてしまったのだろうか。
わたしの意識は鮮明で、列車に着くまでの全てを感じていられた。訪問者の立場では、途中意識が途切れてしまうのだ。
開け放たれた扉から中に入る。わたしを先にデッキへ誘い、中に入っているようにいう。彼はなぜか外へ手を伸ばしている。雨の気配を調べるみたいな様子だった。
目を離すちょっと前に、それは起きた。彼の手のひらには、雨ではなく、帽子が載っていた。
「まあ」
目を丸くするわたしへ、彼はちょっと笑う。指先に詰まんだ帽子を、ちょんとわたしの頭に載せた後で、客車の椅子に投げた。
かたん、とひとりでにドアは閉まった。
ガイに促され、わたしは客車の椅子に掛けた。見渡すまでもなく、見覚えのあるあの列車の室内だ。灯ったテーブルのランプも繊細な調度品も、外の揺れなど微塵も感じさせない。
帰れたのだ。
そのことが、わたしをやや虚脱させた。何を思うでもなく、自分が今、ここにいることをただ感じていたのだ。
我に返ったのは、彼がわたしを引き寄せたときだ。
背に回った腕が、強くわたしを抱いた。言葉もなく、すぐ口づけられた。わたしは瞳を閉じ、うっとりとなすがまま、胸をときめかせ、彼の存在を感じ続けている。
ふと、彼の指がわたしのあごに触れ、それでちくりと痛んだ。かすかな刺激に、思い出す。彼に告げるべきことがあるのだ。
彼の胸をとんと軽く押した。身を引きながら、言うべき言葉を探す。「あのね…」。
わたしが言葉に迷う間、彼はそんなわたしを見つめ、手を握った。
「…僕がそうであるほど、あなたは今が嬉しくないようだ」
「え」
彼は握ったわたしの手を口元に運び、口づけた。「そうなの?」
「そんな…、違うわ。そんなこと、あるはずないじゃない」
ガイの問いかけが意外過ぎ、面食らってしまったのだ。「違うの」。それを繰り返し、首振った。
「なら、何を逡巡しているの?」
「…わかったの。どうして、こんなことになったか、わかったの。きっとわたしのせい…」
ガイは怪訝そうに、目を細めた。それが少しだけ怖く、彼の目を避けて俯く。話せば、愚かで下らない、馬鹿げたことだと、彼の気分を害しそうだった。
それでも話そうと思うのは、打ち明けなければ、その秘密が、のちにわたしの中で、嫌なものに変わっていきそうで怖いのだ。小さな禍根でじくじくと心を痛めてしまうのは、わたしの変わらない性質なのだろう。
「嫌な思いをしたら、きっと叱ってね。だって、ガイは不快だと思うから…」
それを前置きに、わたしは、たどたどしい言葉で話し出した。きちんと整理をしての述懐ではなかった。それでいいと思うのだ。取り繕う気持ちはなかったから。
迎えに来てくれた先程のガイの姿を、その細かな部分までをわたしは知っていた。デジャヴのようにも感じ、以前の彼と混同しているのだと思った。
けれど、違う。
ガイは、わたしを迎えに来てくれたことはないのだ。




             

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