さようならの先に
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「最初は違うの。だって、わたし、覚えていられなかったもの。…だから、わたしが知っているはずがない」
ガイは黙って聞いていてくれる。相槌の代わりか、取ったままの手を握るように包む。
「…だから、知っている、じゃないの。そうじゃなくて、何度も何度もそうあってほしいと思い続けた、わたしの願い、そのものだったの…」
だから、あんなにも詳細に、過去と錯覚するほどに覚えていられたのだ。実らなかった望みほど、きらきらと美しいまま、名前を変え、あきらめや後悔として残るのかもしれない。
その強い願望は、同時に強い意図だ。
ときを経ても、わたしの感知できないどこかで、何かを契機にそれは作用してしまう。相馬さんを送る列車にわたし乗ったのは、願いが動き出す絶対的な要件だったのじゃないか。ガイとの別れ抜きで、わたしの夢は現実とならないから。
「…だから、ごめんなさい。…きっと、わたしのせい」
ガイがちょっと吐息するのがわかった。それに、心がひやりとした。
迷惑なお客の来訪を、どうあしらおうか、やや迷うような。そうでなければ、わたしが、彼の好まないタイプの衣装を身に着けてしまったときのような…。
わたしは彼から手を取り戻し、顔を覆った。大きな失敗が、彼を不快な目に遭わせてしまった、いたたまれなさが、まずある。
そして、いつまでも少女じみた憧れに引きずられている自分も、また恨めしく、恥ずかしいのだ。
「お嬢さん」
彼が呼んだ。
声は優しく穏やかだ。けれど、ガイは苛立ちながらも、そんな声音で話すことができる。
「ごめんなさい…」
ガイの指が、顔を覆うわたしの指を、やんわりと外していく。そして、頬に両の手を置き、上向かせた。「あなたが謝ることはない」。
「僕だって、あなたを一人で行かせることをためらった。それは、あなたを失うのが怖かったからだ。この懸念だって、向きの違う意図になる。それらが合わさって、作用したのだと僕は思う」
だから、わたしだけのせいではないと彼は言った。「そうなの…?」
「それを探ることに、もう意味はないでしょう」
この話を封じるように、彼はそう言った。彼の言葉は、わたしの心を軽くするための方便なのかもしれないし、真実そう感じてのものなのかもしれない。
わたしが更に問うても、彼ははぐらかし、答えてくれないような気がした。
首の後ろに回った彼の手が、わたしを抱き寄せた。髪に彼の指が絡むのを感じる。
「それで、教えてくれませんか?」
「え」
「あなたの願いは、叶ったの?」
 
わたしの願いは、今、叶えられている。
 
「ええ」
「そう、それはよかった」
とうに消えたはずだった。時間が経ち、自分ですら忘れ、心の隅に置き去りにしたあきらめに隠された、本音。
異なった次元の、はかり知れないほどの隔たりの中、切なさに狂いそうになりながら願ったのは、彼の姿だった…。
思い描き続けた願いは、いつしか一つの像になる。わたしはそれを夢に抱き、その中の応えてはくれない彼に、ずっと叶わない恋をしていたのだろう。
そして、どこかでそれは、今も同じなのかもしれない。         
「…ごめんなさい」
「それは違う。詫びるのは僕の方だ。あなたを随分と待たせてしまった。許してくれる?」
「ううん、いいの」
額を彼の胸に押し当てた。ふんわりと煙草の匂いがする。「嬉しかったから…」。
「わたしの夢を叶えてくれて、ありがとう」
そこで、ガイは少し笑った。それが耳に直接届く。それは、今のわたしたちの近さだ。当たり前にあるこの距離を、浸るように味わった。
彼の指が、わたしの髪に絡み、遊んでいる。そうしながら、くすくすと笑うから、わたしの子供っぽいひとりよがりが、彼にはおかしいのだろう。
「嫌なガイ」。顔を横に背ければ、「僕だって、嬉しいのですよ」と、彼の声が降った。
「え」
「ねえ、お嬢さん」
ガイが言う。それは愛の告白そのものだ、と。
「あなたは、ひっそりととてもしとやかだ。そして猫みたいに、気が向いたときだけ、僕に撫ぜろと寄って来るでしょう? あまり甘えても、気持ちを伝えてもくれないから…」
ガイには、そんな身勝手な風にわたしが映るのだろうか。「そんな…」。ちょっと愕然となって、首を振った。
「だから僕は…」
「なあに?」
「気ままな猫にとっての忠実な飼い主になろうと、努めていたのですよ」
やはり、彼はそこでくつくつと笑い出す。「嫌なガイ」。
わたしの顔を上向かせ、まだ笑みが残る唇で、やや強引に口づけた。「ユラ」。狭間に彼がささやく言葉に、わたしは陶然となるのだ。「僕の奥さまは、なんて愛らしいのだろう」。
「いつまでも、そんなあなたでいてほしい。僕は、あなただけをずっと愛し続けるから」
 
そこへお茶が届けられた。
ガイが腕を解いたので、わたしは着替えるために席を立った。
着替えて戻ると、指に煙草を挟んだまま、わたしの手首をやんわりとつかんだ。「いつ怪我をしたの?」
運動会で転んだときのすり傷だ。派手に転んだので、大き目の絆創膏から、今も血が透けてのぞく。ちょっと転んだのだと言い、お茶をカップに注いで彼に差し出した。
問いたいことは、幾らもある。
舌の焼けそうな熱いお茶を前に、まず彼の側で、時間はどれだけ経ったのかを訊いた。
ガイは三か月だと答えた。それは、わたしがあちらで経験した時間よりも、ふた月も短い。その時間のずれは、この際ありがたかった。
「ノアは?」
「安心して、元気ですよ」
彼の足にしがみつくようにして、もう立つのだというから驚く。わたしが知るノアは、危なっかしい一人座りを覚えた頃だった。
ごく幼い子供にとっての三か月は、とても大きい。身体が見違えるほどに成長し、様々なことを覚えていく。あの子の中で、長く会わなかった母親の存在など、無いに等しいのではないか、と泣きたいような気持になるのだ。
ガイとの再会で、心はみずみずしく潤った。そのひたひたと満たされた幸福感が、ふっと陰るのを感じた。
ひどく悔やんだ。
ガイの代わりが務まるのだなどと、高揚感にうかうかと思い上がった、自分への罰のようにさえ思われた。わたしが意識を向けるべきものは、家族との日々の暮らしにしかないのに。
なんて、愚かだったのか…。
黙り込んだわたしの顔を、ガイがのぞくようにうかがう。「お嬢さん?」
わたしは、ポケットに入れた懐中時計を彼に返した。「いけなかったの。ガイだけが持つはずのものを、わたしがねだったりしたから…。ごめんなさい」
「あなたが悪いのじゃない」
彼が手のひらの懐中時計の蓋を、ぱちんと音をさせて開けた。指で、中の鏡をとんと軽く叩くようにして検めている。滑らかな仕草でそれを終えると、ジャケットの内側にしまった。
「疲れたのでしょう。お飲みなさい」
わたしはカップを取った。手を温めるように、濃い紅色のお茶をゆっくりと飲んだ。
わたしがカップを置くのを待って、ガイが話し出す。彼はわたしに、もう列車に乗ることは止めてほしい、という。
いつもの優しい依頼ではあるが、わたしにはわかる。それは、彼のわたしへの禁止であり、命令なのだ。抗う気持ちもなく、わたしは頷いた。
「ごめんなさい、本当に…。とても懲りたから」
「謝らなくていい。僕が浅慮だったんですよ」
ガイは、わたしが消えた後、途方に暮れたといった。懐中時計の鏡に映る人物が、彼を呼ぶのだ。そこで満月を待って、この列車がやって来る…。
「とにかく、鏡があればいいのじゃないか。あなたの鏡台や手鏡では無理だった。何も映らない。なら、祖母のものではどうだろう…」
「ガイのお祖母さまの?」
「ええ。憑かれたように祖母の遺品を引っかき回す僕を、ハリスが怖々見ていましたよ。あなたがいなくなって、気が触れたとでも思ったのかもしれない」
ガイはそこまで話し、断ってから、煙草に火を点けた。再び懐中時計を取り出す。こちらへ差し出して見せるそれに、わたしは目を見開いた。
金の懐中時計だった。
微細な傷のため表面はくすんでいるが、表の意匠も大きさも、銀のそれと全く同じに見えた。ガイは蓋を開けて、わたしに中を見せてくれた。ガラスのカバーが割れてひびが入り、時計は壊れて全体に傷んでいるが、蓋の裏側の鏡まで、同じ作りになっている。
「これが、もう一つの銀のものと同じ役割なのかはわからないが…。ともかく、二つあったのです。そして、こちらにも、あなたの影が映った」
何となく伸ばしたわたしの手のひらに、彼は、すとんと時計を落としてくれた。心なしか、ほのかに金のそれは、重い気がした。
曇った鏡に見入るわたしに、ガイが言う。「でも、それでは列車は来ないのですよ。何度も試したが、無理だった」
「え」
「だから、あなたに呼んでもらうしかないと悟った」
あちらにいるとき、幾度もガイの声を感じた。耳が捉えるのではなく、直接頭に響くような不思議な伝わり方をした。あれは、この小さな鏡を通しての、彼からのメッセージだったのだ。
 
あの声が、わたしを導いてくれた。
 
遥か遠い世界からのガイの声がわたしに届き、それがわたしに、どんな力を発揮させたのか、定かではない。ただ、わたしは彼を思っただけ。帰りたいと願っただけだ。
「…驚いたわ。鏡を通して迎えがあるなんて。ジュリア王女のときは、違ったから」
ガイは、それは変わらないのだ、という。出入りする扉が、今回ごく小さくなってしまったのだといった。
そして、満月だから、この列車が彼の側に現れたのではないともいう。更に、彼すら未経験の激しい揺れがある。
「違う懐中時計を使うことで、規則性が崩れたのもあるでしょう。次元を同じくする僕とあなたが、同時に回廊を抜けることにも、きっと原因がある。この世界体系では影響が大き過ぎるのかもしれない…」
彼の声は、終わりには自問のようになった。そのままちょっと耽るように、考えに入ってしまう。懸命に、わたしが帰る術を探り出してくれたのに、それが彼の終わりではないのだ。
その彼とは別に、わたしは不思議と寛いだ気分でいた。もう帰れるという、嬉しさ。ガイの側にいるという、絶対的な安堵がある。わたしには理解の及ばない理屈など、追うつもりがない。
彼は、無防備な横顔をこちらへ向けていて、瞳の先の見えない事実を求めていた。その彼にうっとりと目を向けながら、胸で密かにつぶやく。
いいのに。
彼の指先で灰が長くなってしまった煙草を、そっと抜き、灰皿に落とし入れる。金の懐中時計の蓋を閉じ、テーブルに置いた。
そこで、彼がわたしへ目を転じる。「申し訳ない。つい考え込んでしまった。僕の悪い癖だ」。わたしの手を取った。
「…この状況だって、かなりの無理のはずだ。離れたら、次はない。あなたにもそう思ってほしい」
「ええ、わかったわ」
「いい? お嬢さん、どんなにあなたが狡くねだっても、僕は許しませんよ」
「狡くなんて…」
「あなたを失ったと知った、あんな思いはもうたくさんだ」
ガイは気づいているのだろか。彼の言葉はそのまま、わたしへあの世界での全てを消してしまえ、と命じていることに。
彼はこれまで、何度も、いずれか選ぶ道を残してくれる人だった。わたしは、それがひどく嫌で、なのに繰り返すガイを恨めしく思っていたのだ。
彼がわたしへ突きつけるまでもなく、わたしは、とうにあの世界を消しているのに。起こった過去を、捨てるのでもなく、忘れるのでもない。
それらを、この先「ある」と意図していない。認めないのだ。だから、わたしにあの過去は追いすがって来ない。
すとん、と心に落ちたその気づきは、わたしをうんと幸せにする。




             

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