さようならの先に
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どれ程が過ぎたのだろうか。
わたしはガイのコートにくるまり、彼の肩に身を預けていた。不意に、ボーイが音もなく現れた。「ご降車下さい」
短く告げ、彼はわたしたちを扉へ促した。まずガイが立ち、わたしの手を取り、デッキに出る。開いた扉の先は、照明に慣れた目には、濃い闇が広がっているばかりだった。
え。
ガイが表情を硬くして絶句するのが、わかった。彼はわたしへ下がるように言い、扉部分に手を掛け、身を乗り出して外を見ている。その背からのぞくと、この場が、この列車がいつも終着点とする駅のホームではないと気づく。
「いやはや、ターミナルまで異なるのか…」
やや首を振ったガイが、そのまま簡単に外へ身を躍らせるのだ。驚きと恐怖に、わたしは悲鳴を上げてしまった。
「大丈夫、お嬢さん」
すぐに下から声がする。ガイは列車の下にいた。下げられた縄梯子に足を掛け、わたしを招いた。とてもガイの真似は出来ない。恐るおそる梯子に足を掛け、何とか彼の側まで下りた。そのまま身をすくませていると、彼がわたしの肩を抱きよせ、「怖がらなくていいのですよ」。
「ほら」
と、ガイは梯子をつかんでいた手をさっと放して見せた。身体の一部分でも梯子に触れていれば、落下することはないのだという。
にわかには信じがたい。
わたしたちを乗せた梯子は、するすると落下していく。眼下には、ひたすらに夜が広がり、星粒のような明かりが点々と目に映る。
「ボーイの彼に、どうして駅に行かないのか、訊ねないの?」
ガイと共にあっても、この状況は不安で、わたしを十分に戸惑わせた。
「あれは人ではない。答えなどくれませんよ」
え。
返ってきた彼の言葉に、更に混乱する。「お化けなの?」
わたしの問いに、彼は笑った。「お化けはよかった」。
「あの列車の従属物だと思えばいい。あると便利でしょう」
「…どこへ行くの?」
彼は、足元に広がる暗がりに目を向けた。しばらく目を凝らしていた彼が、落ち着いた声で言う。「どこに着くか、わかりましたよ」。
「大学だ」
しばらく降下すれば、ガイの言葉通り、わたしにもその場所が認められた。広大な敷地に、点在する研究棟の狭間には池が幾つかあり、森のように木々が密集している個所もあった。
ちょうど池の畔に、わたしたたちは降り立った。夜のキャンパス内はしんと静まり返り、人の姿もない。どこからかフクロウが鳴くような声もした。
ガイはわたしの手を取り、照明が薄く灯す通りを迷いのない歩調で進んでいく。自身が、学生の頃から長く通う場所なのだ。宵闇であっても、大学内の地図がすぐに浮かぶのだろう。
「速過ぎましたか? 申し訳ない」
ガイが歩を緩めた。「いいの」。わたしは早足だったから、少し息が上がっている。ガイはわたしを腕に抱くように引き寄せる。
よく知る場所なのは幸いだが、どうしてここに列車が着いてしまったのだろう。それを口にすれば、ガイは、この大学からわたしを迎えに来たのだと言った。「だから、この地が出口になったのだろう」
ガイは辺りを見回し、困ったように「参ったな…」。
「正直、ここがどこか、わからない」
「え」
意外な声に、わたしはあぜんとしたが、すぐにおかしさが込み上げてきた。
ガイはわたしの目に、その挙措だけでなく、非常にスマートな人である。研究職の傍らに増えた責務にしても、面倒がりながらも、堂々とこなしてしまう。今回の時空を超えた旅の、異例の困難な事態でも、やはり収拾してしまうのだ。
そんな、ごく理知的で洗練された彼が、人生の半分以上をも通う大学の内部でなぜか迷い、「参ったな…」と、うろたえるのだ。その落差が、どうしてもおかしかった。
笑ってはいけない。封じれば封じるほどそれは募って、ついにふき出してしまった。
「どうしたの?」
返事も出来ずに、とめどもなくあふれる笑いを、口を押さえ、やり過ごす。ひとしきり笑った後で、詫びた。「ごめんなさい…」
「僕が不甲斐ないから、あきれているの?」
「違うわ」
ガイの気分を害したのかと、わたしは彼の腕を取って胸に抱いた。「ごめんなさい、怒らないで」。少しだけ彼を可愛いと感じたことは、口にしないでおく。
そのとき、向こうからランプの明かりが見えた。「どうしましたか?」。誰かが、こちらへ明かりを揺らし、駆け寄って来る気配がする。
「守衛だ」
彼がつぶやいた。ガイがそちらへ手を上げて応える。
やって来た守衛へ、ガイは彼に身分を名乗り、馬車を用意してもらいたい、と告げた。
「では、こちらへおいで下さい。近くの第三教授棟へご案内します。アシュレイ先生でいらっしゃいましたか、…いや、ご婦人の声がしましたから、こんな深夜にと、慌てました」
守衛の後について歩きながら、ガイがわたしへ囁いた。
「お嬢さんが僕を笑い者にしたから、彼が来てくれた。あなたの手柄ですよ」
声は尖ったものではなく、逆に面白がっているもののようだ。「ごめんなさい」。そう返しつつ、ちょっとほっとする。
案内された教授棟のロビーで待った。装飾らしいものの少ない、堅く質素な場所だった。階上には、教授室やその私室があるらしい。守衛に明かりを灯してもらい、布張りの長椅子に掛けた。
「ガイがいるのは、ここではないの?」
彼の秘書のようなことをしていた時期が、わたしにはある。その時、ここと似た場所に、彼の教授室もあったように覚えている。
「小ましな内装から見ると、人文系のようだ。著名人が多く出ているから、寄付も潤沢で、裕福なのです。反面、僕の科学系は人気がなくて、素寒貧だ。出身者もろくでもなくて、寄付を忌避している悪循環です。お嬢さん、覚えていない? 天井の照明が壊れていたでしょう。それが、今もそのままだ」
「だったら、ガイが寄付したらいいのに」
「僕が? とんでもない」
ガイはやれやれ、と肩をすくめて笑う。長く伝わる、ちょっと自虐な大学内のジョークなのかもしれない。
足元が冷えた。そのせいで、寒気が上がって来るようだ。隅々までが冷え、頭痛がし、身体が重く感じる。いつの間にか、身体を折るようにしていたわたしへ、ガイがかがみ込んでうかがう。
「どこか、苦しいの?」
「…ううん、大丈夫。少し寒いだけ」
「可哀そうに、辛そうだ。もうしばらくだから…」
隣りに座った彼が、わたしを腕に包んでくれる。「疲れたのでしょう、眠ってもいいから」
「ありがとう」
彼にもたれて瞳を閉じれば、落ち着いていられた。そうしていると、彼と再会してからのことが、次々と思い起こされるのだ。
今も続くこの二人の時間は、まるきり秘密のデートのようだと思った。それが嬉しくて、口元が緩んだ。こんな馬車を待つだけの時間すら、楽しい。
わたしを見ていたのか、ガイは、「また、僕のおかしなところを見つけたの?」と、からかう。わたしは返事をせず、彼の胸に頬を寄せた。
わたしは、彼とデートすらしたことがない。
そんな自由は思いも寄らず、求めもしなかった。彼と恋人であった時間はなく、妻となってからは、それがわたしの仕事になった。日常に埋没し、その維持に懸命であり過ぎて、彼の妻としての単純な喜びをも、知らずに来たように思う。
そんな努めていた日々が、もちろん苦痛でも不幸なのではない。悔いてもいない。
けれど今、切なく振り返ってしまうのだ。
 
間もなく、馬車の用意ができたと知らせが来た。ガイはわたしを、腕に抱いたまま馬車に乗せた。見送る守衛に、どこで見つけたのか、新聞を差し出す。
「これは、今日の新聞かい?」
ランプをかざして、見出しを検めた守衛は頷いた。「確かに、本日のものです。はい、記事を覚えております」
「そう、ありがとう。助かったよ」
馬車が走り出した。空いた席に放った新聞を見た。「なあに?」
「日付の確認ですよ。よかった、時間のずれはない」
これまでのルールが通用しない、奇異なことばかりの旅だった。その決定打に、時間の狂いがあってもおかしくはない。
馬車は走り、いつしかわたしは、ガイにもたれながらの心地の良い揺れに、眠りに入っていた。
目が覚めたのは、馬車の扉が開く音だった。ガイが降り立ち、邸の門扉を自ら開けたのだと知った。深夜だ。門番小屋に詰めているアルは、もう住まいに下がっているのだ。
馬車に戻ったガイが、目を覚ましたわたしに、微笑んだ。「わかるでしょう? ほら、邸に入った」
「ええ」
門から長いアプローチがあるが、邸内のこと、すぐだ。
暗く静まった車寄せに降り立ち、ガイは馬車を返した。わたしは玄関の敷石に立ち、帰って行く馬車を振り返った。数か月前に、自分がこんな風に立つガイを迎えたことを思い出す。
ノッカーの音に、程なく従僕が現れ、扉が開く。明かりを持った従僕が、扉を開けて迎え入れながら、ガイの傍らにいるわたしの姿に、驚いているのがわかる。
「下がってくれて構わない」
彼に遅れて、わたしも告げた。「どうもありがとう。もう休んで下さいな」
施錠をした従僕は、わたしたちが階上に向かうと、お辞儀をして下がった。
「こののち、お嬢さんが帰ったと知ったら、皆、驚くでしょうね。きっと喜びますよ」
列車が来るのも定かではなかったのだ。彼が邸の誰にも、わたしの迎えに向かうことを伝えていないのは当然だ。
子供部屋を訪れたかったが、今はあきらめた。ノアの月齢を考えれば、既に夜も長く眠る頃だろう。わたしが部屋をのぞくことは、子だけでなく、子守りのハリエットの休息を邪魔することにもなるのだ。
寝室は、暖炉の火が静かに起きていて、その暖かさがありがたかった。火の温もりの心地よさに、身体が溶けてしまいそうに思う。
彼がわたしを求めて、すぐに触れ合い抱き合った。
肌を重ねることでしか、伝えられないものもあるのかもしれない。彼を待ち続けて忍んだ日々を、わたしは、今埋めたいとせがんでいた。
「愛している」と繰り返し、熱く執拗な愛撫をくれる彼には、言葉にはならないその孤独を垣間見るのだ。
求め合った後で、わたしはうっとりと彼の腕の中にいた。眠気を感じるが、まだ眠ってしまうのが惜しい。この陶然とした密な時間を大切に過ごしていたかった。
「僕は乱暴ではなかった? あなたを前にして、堪らなくなってしまったから…。美しくて、ひどく愛らしくて、こんなあなたを長く一人にしていたのかと、悩ましくなった」
「何もないわ」
彼の言葉にはにかみながらも、わたしの答えは屈託がない。離れた日々に胸に描いたのは、彼だけなのだ。「そうであっても…」。ガイはわたしの額に唇を寄せる。
「嫌だ」
あなただけ。ガイだけを思っていたの。
「知っているくせに…」
ねえ、とわたしは彼の指を自分の指に絡めながら口にした。「お願いがあるの」
「この状況で狡い」
ガイはちょっと笑った。「何でもどうぞ」。
そう寛容に答えてくれる彼が、わたしに許す自由は、それほど広くない。その与えられた世界の先の、見えない境界の向こうに何があるのか、わたしは興味がないのだ。




             

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