さようならの先に
35
 
 
 
 
「もう一度、あなたの妻にしてほしいの」
「え」
今も続く、彼とのデートのような時間が、愛おしくてならない。やり直したいのではなかった。これまでの日々は、わたしたちを成り立たせるものだから、大切にそのままに。
わたしは、もう一度、新たに彼の妻となりたいと願う。
余裕なく駆け続けたような日々に、気づけずにいた、または敢えて逃した、喜びや嬉しさが幾つも幾つもあるはず。この日、彼と密に過ごして、きらきらと目の前に映るそれらに、わたしはくらむように感動した。
こんなにも、満たされていたのに…。
何も特別なことは要らない。彼の側にある喜びを、嬉しさを、充実を、ときに無心に感じ味わえばいいのだ。
そんなあなたの妻でありたい。
「ねえ、ガイ。もう一度、わたしを選んで」
「お嬢さん、それは、どういう意味?」
意味などいいのだ。わたしは彼の指を唇に運び、やんわりと噛んだ。「お願い…」。ガイが好む、わたしの甘い媚態。
彼は短く喉の奥で笑う。「僕が妻に選ぶのは、あなただけだ」。
「これでいいの? ねえ、奥さま」
「ありがとう。何でもないの、ただ、ガイにそう言ってもらいたかっただけ」
「あなたはどうして、そんなにいつも愛らしいの? あなたの肌を僕はよく知っているのに、何だか、あなたと初めて愛し合ったときのような心持ちになる」
「え」
彼が耳に囁く彼の甘やかな言葉に、わたしは羞恥で何も返せなかった。心の芯はしっとりと潤み、女性の内奥にそれぞれの花があるとして、歓びにふっくらと開くのを感じる。
うっとりと酔うようにまぶたを閉じた。
 
 
少しだけ遅く起きた翌朝、わたしは身支度を済ませてから、眠るガイを起こした。運ばれてきたお茶をカップに注ぎ、彼に差し出す。
彼はあくび混じりに受け取り、わたしへ微笑んだ。一緒にお茶を飲み、今日のことを少し話した。
ガウンを纏い、ガイはバスを使いに化粧室へ向かった。彼が去った後で、寝台が気になり、何となくシーツの乱れを直した。
部屋を出て、自然に子供部屋へ足が向く。廊下ですれ違うメイドが、わたしの姿に驚きもなくお辞儀をする。ふと、ガイは妻の不在をどう取り繕ったのだろう、と気になった。
ノックののち部屋に入ると、着替えを終えたノアが、覚束ない足取りでよちよちとしている様が目に飛び込んできた。
部屋は、木馬がサイズを変えて幾つもそろい、わたしが出産前後にノアのために作ったモビール、積み木などがあふれた可愛らしい設えになっている。
記憶よりもずっと成長した子の姿に目が吸いついて離れない。わたしを覚えているのかどうか。抱き上げるわたしへ、それでも無邪気に笑い返してくれた。
髪がこの頃には、しっかりと黒色だとわかるようになっている。少し前はガイの濃い茶のそれと同じだと思っていたのに。
「大抵が、ご機嫌のよろしいお子さまですわ。まだまだお小さいのに、気分の波があまりなくいらっしゃるのです。これまでお世話差し上げたお子さま方とは違って、随分と楽をさせていただいておりますの」
「まあ、そう。おとなしい性質なのかしら…」
わたしの腕の中が窮屈そうに、身じろぎを始める。「あっち」と取れなくともない言葉を口にするから驚く。「ああ、下ろしてほしいの?」。床にそっと下す。
「活発なお方ですよ」
不安定なつかまり立ちだから、バランスを崩しすぐに転んでしまう。転ぶことも遊びめいていて、それで泣くこともない。
そこへガイがやって来た。「下で僕たちを呼んでいますよ。朝食のスープが冷めると、ハリスがじりじりしている」
ガイの声に振り返ったノアの表情が、彼に似るのがはっきりとわかる。瞳は同じブルーグレイだ。ノアの姿に、わたしが知らない幼い頃のガイを見るようで、嬉しい。
「ガイに似ているわ」
「そうですか?」
屈んで、ノアの頬を優しくつまむ彼の目が、緩く和んでいる。「僕はあなたに似て見えるな」。
ガイが立ち上がり、わたしを促した。ひどく空腹らしい。
ハリエットにまた後で来ると告げ、子供部屋を出た。
ガイがわたしに背に手を置き、そこから腰に下りて留まる。いつもの彼の、わたしを伴う仕草が嬉しくて、そして気が楽になる。長く不在の後で、一人で下に降り、朝食の席に着くのは、ちょっと億劫だったのだ。
留守の言い訳や、不在の詫びと礼…。一時に、それらしい振る舞いが必要になる。ガイが側にあれば、わたしは彼にあわせていればいい。必要なとき、「ありがとう」と一言添えれば済んでしまうのだ。
 
朝食の後で、ガイは普段通りに温室に移った。邸を飾る切り花用のそれに隣り合って、暖かいサロンになっている。中央に籐のティーテーブルのセットが置かれ、わたしはこちらで、一人の午後のお茶を過ごすことも多い。
ガイは隅の長椅子に掛け、新聞を手にしている。わたしは、コーヒーのトレイを傍らの小テーブルに置き、ポットから注いだコーヒーを彼に勧めた。
朝は使用人が忙しく、わたしが朝食室でコーヒーを従僕から受け取り、ここまで運んで彼に差し出す。いつからかわたしの仕事にしてしまっていた。
煙草をくわえていた彼が、火の点いたそれを灰皿に置いた。「ありがとう」
カップを受け取り、口に運ぶ。わたしも一緒にコーヒーを飲んで少し過ごすこともあるが、今朝は、書斎に溜まっている手紙の処理が気にかかり、すぐに立ち上がった。
ガイが、私信の一切を目にすることはほぼない。数多ある全てにわたしが目を通し、迷うものはハリスに問うたりして、ガイの名でわたしが返信するのだ。丹念に練習し、ガイの自筆と遜色ない文字が書けるのは、密かな特技だ。
贈答物の往復もしょっちゅうで、頭を悩ますものもある。そんなときも、ガイに訊くことはまずない。「放っておきなさい」としか、彼からは返って来ないから。それらに、午前の時間は大抵埋まってしまう。
ほのかな花の香に、邸のあちこちに花を飾りたくなる。後で切りに来よう…、とぼんやり思ったとき、ガイがわたしを呼んだ。座ってほしいという。
「なあに?」
そのまま、絨毯の床に座ったわたしの手を引くから、彼の隣りに動いた。ガイは新聞をカップの乗る小テーブルにぽんと投げた。話したいことがあるという。
彼は一人掛けの椅子に足先を置き、長く足を投げ出している。ふと、そこに猫のシンガポアが、のっそりと姿を現した。温室に隠れていたようだ。わたしたちをちらりと一瞥し、ごろりと床に寝転んだ。愛らしく太って貫禄があり、ちょっとこちらを睥睨するような威厳だ。
「あなたに聞いてほしいことがあるのです。…夕べは、僕たちは話どころではなかったからね」
彼の視線が頬に当たる。そこがじゅんと熱を持つのだ。わたしが頬に手を置き、「なあに?」と訊いた。
ガイは、ジャケットの内から出した懐中時計を、わたしに差し出して見せた。もう一つ取り出す。今度は金のものだ。
銀の方の蓋を彼が長い指で開ける。独特のしなやかな仕草だ。ちょっと目が吸いついてしまう。
「今後、鏡に誰が映ろうとも、あなたはあの列車に乗ってはいけない。これは、いいね?」
「ええ」
わたしは頷いた。「離れるのは、もう嫌」
「そうですね。僕も散々に懲りた。だから、このことを教訓にしよう。あなたがあれに乗ることは、僕たちを割くのだ、と」
互いの役割を守ろう、とガイは説く。頷いて応え、ここを訪れた相馬さんが、いつか口にしていた「宿屋の女将」になろうと誓う。まだ見知らぬ旅人が、快適に過ごしてもらうことだけに専心するのだ。
彼の膝に置かれた、金の懐中時計に目がいく。まるで、銀のものと対であるかのようだ。
「あちらは、どうするの?」
「祖母の遺品の中に戻そうかと…。僕が持っていても仕方がない。存在すら知らなかったのだから」
「どうして、お祖母さまはおっしゃらなかったのかしら?」
「必要なかったからでしょう。不要だから、壊れたビスクドールなんかと一緒に突っ込んであった…」
「ねえ、お祖母さまはどんな方だったの?」
「うん? そうだな、僕をおばあさんにしたような…」
そのたとえがおかしくて、笑った。「物事を理詰めに突き詰めて考える、そんな性質はよく似ていると思う。僕が学者になったのも、祖母の影響がきっと濃いでしょう」
学級者肌の女性であったようだ。貴婦人であり、研究者の素養を持つ。邸には肖像がなく、想像でしか、その人となりを辿れない。何となく、背が高く、姿勢のいい老婦人が思い浮かぶ。
「ねえお嬢さん、あなたはこの時計について、不思議以上に何も感じませんか? 僕に訊いたことがないね」
「…訊くつもりがなかったの」




             

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