さようならの先に
5
 
 
 
十日を過ぎれば、相馬さんはぼちぼちと外に興味を持ってくれるようになった。対外用に「叔父さま」と呼ぶことを許してもらった。ガイは変わらず「先生」と呼んだ。
ノアを連れ、散歩に近在を歩くこともあったし、ガイと共に夜会に連れ出したこともある。こちらのあちこちに興味はあったようだが、「二度と行かん」とお気に召さなかったようだ。
彼の口に合うよう、少しでもあちらの味を再現できたら、とわたしは食事にも頭を捻った。だしの概念が異なり、見合うその食材もない。
せめて近いものを求めて、魚でスープを取ることを思いついた。料理人に手伝ってもらい、焼いてから、あくを取り煮出せば、透明できれいなスープができた。薄味で仕上げれば、さっぱりとした汁物の代わりになった。
他、こちらでは粥風にして煮込む米を、固めに炊いて握り、塩結びを作ってみる。漬物の代用には、根菜を塩で揉んだものを用意した。あちらの食事の真似事でしかないが、これらは思いの外気に入ってもらえた。朝食や昼食に提供すれば、喜んで食べてくれ、工夫した甲斐もあり、とても嬉しかった。
二週間が経った頃、ガイが再びゴブジス島へ行くことが決まった。軍を統括する王子の代理であり、否応もない。
五日ほどの滞在になるらしいが、はっきりとしないようだった。
その出立の際、彼は相馬さんに、
「お嬢さんをお願いします。先生をとても慕っていますから」
「奥方をいつまでも「お嬢さん」扱いしなさんな。ユラさんはもう立派な母親で、伯爵夫人だろう」
「ははは、そうですね。では、妻を頼みます」
ガイが留守の間、相馬さんは家長代理として振る舞ってくれ、大いに助けられた。どうしてだか、ガイの留守を狙ってやって来る人もあるのだ。そういった面倒な客人へも、失礼のない程度にはっきりと拒絶を示してくれた。わたしであれば、せいぜいが火の入らない居間で対応するしか、思いもつかない。
女主人の叔父という肩書もあったろう。しかし、そんな薄いものより、偉ぶらないのにどこか威厳のある、彼個人の人徳といったものが感じられ、使用人たちも一目置くようだった。
相馬さんの経営する保育園とはどんな場所だろう、ふとそんな興味がわき上がる。目にすることはない。だから、わたしはあれこれその話をねだり、聞かせてもらうのだ。
わかっているが、彼はここに残ることはないはず。日が過ぎ、ガイやわたし、邸にやや慣れた今、その余裕がこちらの滞在を限られた期間、味わおうとするのは感じられた。しかし、それは期限の切られたものなのだ。だから、受け入れる姿勢を見せてくれるのだ。
ガイがゴブジス島から帰って来たのは、五日の予定に七日を足したものになった。次の満月の日までもうそれほどもない。
夕食の後で書斎に引き取れば、グラスの酒を飲みながら、ガイと相馬さんはよく話をしている。ガイは穏やかでいい聞き役であるが、儀礼に話を引き出し相槌を打つのではない。相馬さんの話が面白く、引き込まれているようだった。
「身分制度がないはずの先生のお国でも、身分に変わる序列ができるのは、おっしゃるように、わかる気がします。固定化してしまえば、それが新たな身分制度になり得ますね」
「そう。あまり変わり映えしないがね。それでも、建前では国のトップもその辺の一市民も、平等という風にはなっている。この建前こそが、わたしらの国の要かもしれんね」
ガイは幾度も軽く頷く。それに相馬さんが、
「少し逸れるが、伯爵のような身分のお人も、その存在が社会を作っているのじゃないのかね。ガイさん、あんたが貴族然と振る舞う。それであんたの雇う人間は箔が付く。そうしてこの邸は成り立つし、ここに連なる人々もそれを認めて従う。それが伯爵家の社会だろう。こんな家が幾つもあれば、それらがくっつき合って貴族社会が出来上がる。そのあんたがどこかで、ぽろりと庶民の振りでもしてみなさい、途端にあんたに従った人間の箔が落ちてしまう、伯爵家の社会の崩壊だ」
「ははは。面白いですね、僕たちも建前で暮らしていると?」
「違うかね? 建前の名前が違うだけだと見えるが。平等と謳おうが身分制度を敷こうが、人間のこしらえた社会では、どこかで建前がつきものだろう」
「なるほど、確かに。では、僕はせいぜい威張って暮らしていればいいのですね、周りの箔を落とさないために」
「そうそう」
ガイはおかしそうに笑った。
折りに触れ、彼は相馬さんの意志を確認することを怠らなかった。残された日は少ない。こちらを選ぶか、どうか。丁寧な問いには、はっきりとした答えが返った。
「大変よくしてもらったが、やはりどうしても帰りたい。そうさせてほしい」
すぐにではなくても、と思った。近い次の満月ではなくともそのまた次でもいい。そういう選択もできる。それをうかがえば、
「ありがとう。でも、ここはわたしのいる場所じゃない」
間違えようのない拒絶にわたしは声を失った。抗えない違和感は、経験あることでよく理解できた。頷いて了解しながら、それでも寂しさが胸にこみ上げるのだ。
別れを辛いと思った。
気を張って迎えた。滞在中は考えつく限り工夫をし、居心地よくいてもらいたいと願い、彼へ親切でいたいという思いが常に頭にあった。
それらの気持ちがわたしの中から離れ、ふわりと宙に浮いたような気がした。二人になれば、落胆の隠せないわたしを、ガイはいたわってくれる。
「あなたは彼へとてもよくしてくれました。僕は感謝に絶えない」
「できることをしただけだわ」
「いい人でしたから、僕も寂しいですよ」
「ええ…」
予め、ガイはこうなることを伝えてくれていたのだ。こちらを選ぶ人は少ないと、だから期待をかけ過ぎてはいけないと。わかっていたのに、わかっているのに。頑張って仕上げた作品に、惨めな評価が付いたような、そんな利己的な味気なさがあった。
「帰る人が多いのなら、こちらを求めもしないのに、どうして選ばれて影に映るの?」
「選ばれるのではなく、映った人物が、こちらを呼ぶのです。その人物が何をどう思おうが関係ない。そんな内面が、影に映る作用に影響することはないのです」
ガイの話は抽象的に聞こえ、難しかった。不思議な懐中時計の謎について、彼が知ることでわたしに把握できないことがまだあるのだろうと感じる。
選ぶのは、相馬さんだ。その彼が決めたことは、尊重しなくてはならない。自分をたしなめ、気持ちに折り合いをつけるのに、少し手間取った。
満月は近づく。せめて、と何かこちらの思い出に用意したいと、小箱に家名のイニシャルを入れたノアの小さなスプーンを一つと、わたしの名が入ったハンカチ。そしてガイのカフスを一個しまった。
きれいに包んだ箱を、わたしは満月を迎えるその日、書斎の窓辺に置いた。ガイに持って行ってもらうためだ。列車の中でも、別れの間際でも、相馬さんに渡してほしい。
彼はその前日から少し風邪気味だった。発熱していて、大事を取り横になってもらっている。夕刻、大学から戻ったガイが、所在なげに小箱をなぜるわたしの手を取った。夕食の献立も決まり、相馬さんには卵を落とした粥を部屋に用意するよう伝えてある。この日取り立てもうすることがなく、ぼんやりとしていた。
「考えたのですが…」
ガイはわたしの手を握る。
「あなたが、彼を送りにあの列車に乗りますか?」
 
え。
 
「しょんぼりとして、可哀そうだから」
そう言って彼はちょっと笑った。わたしは驚き、彼を見上げた。ガイは頷いて、「送る方が易いと思う。けれど、一人で怖いのなら…」
「ううん」
わたしは首を振り、行きたいと告げていた。最後にわたしが相馬さんを送る、それでこの役目を終えたい、そう思ったのだ。
「ちゃんとお別れをするわ」
「ええ」
ガイは胸から懐中時計を取り出した。わたしの手のひらに載せてくれる。久しぶりの親しんだ重みだった。
その手を彼の手がくるむように包んでくれ、
「では、少し話をしましょう」
「何を?」
「お嬢さん、あなたについて」




             

『さようならの先に』ご案内ページ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪
ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪