さようならの先に
7
 
 
 
それは全く意外な言葉で、わたしは愕然とした。顔を上げ彼を見る。ガイは目を逸らさず私の視線を受け、
「先生がやって来て、あなたは楽しそうだった。あの彼を通して、置いてきたあちらの世界を見ることもあるのではないかと、僕には思えた」
「え」
「そうであっても」
責めているのではない、と彼は言う。振り返ることもあるだろう、それは当たり前のことだ、と。ただ…、と言葉を途切れさせた。
そこで彼はわたしを胸に抱いた。少しきつく力を込める。
「あなたも、もう一度選ぶことができるのですよ。ここか…、いや、僕か過去かを」
声が詰まった。思いがけない彼の告白は、わたしをただ驚かせ、ほんののちに憤りを産む。なぜそんなことを問うのか。腕の中で彼のシャツの匂いをうんと吸い込んだ。
「怒ったわ」
「お嬢さん…」
「そんなことを言うガイは嫌い。大嫌い」
離れていた期間、どれほどの思いを堪えて過ごしたか。来ないあなたを待ちわびて、それでも待つしかできない自分に、どうしようもなく疲れたこと。いっそ、あなたを忘れてしまいたいくらい辛かった。ガイを知らなかった頃に戻りたいとさえ思った。
再びこちらに来られても、心の傷めいたそれは、長く尾を引いた…。それを彼は知っているはず。よく知っているのに。それでも、こんな問いを投げかける彼を、意地悪だと思った。
「嫌い」
彼なりの優しさであるとは、わかる。この期に及んでも、わたしにいずれかを選ばせてくれるのだ。けれども、そんな思いやりは要らない。ほしくないのだ。
「そんなこと…、言わないで」
涙ぐみ彼をなじるわたしを、彼は抱いていてくれる。「悪かった、ひどいことを言ったね」。
「あなたがそう返してくれるのを、僕はわかっていた。それでも、聞きたかったのです。僕を選んでくれると、あなたに、その声で」
「ひどいわ」
「ねえ、僕を引っかいてもつねってもいいから」。ときどき言う、わたしをあやす際の彼の言葉だ。
ガイはひどい。
気がかりであるなら、相馬さんを送らせることを、許さなければいいのだ。わたしの願いを聞き届けてくれながら、こんなことを言う。試すようなことをする彼を、狡いと思った。
わたしの気持ち再確認したがる彼の意識の奥には、わたしへの信頼が揺らいでいるのかもしれない。
相馬さんが現れることで、それが大きくなった…。
「わたしを信じてくれないの?」
「そうじゃない」
「どうして、わたしがあなたとノアと離れることができると思うの?」
 
どうして?
 
気持ちがほんの側にあるのに、すれ違っていた。
ガイのわたしへの尊重と正しい優しさ。そして、答えを知りながら、エゴを抜いたそれらを突きつけて、わたしに選ぶ自由をくれる傲岸さ。そのことに腹を立て、彼の振る舞いを残酷だと罵るわたしは、意図した答えをわたしが口にしなければ、彼はどうするのだろう、そんなことを、嫌らしく胸に巡らせている。
「わたしに飽きたのなら、教えて」。そう声にしたかった。きっと彼がくれるだろう言葉を当て込む、意趣返しのようなことを思いついているのだ。彼の目の前に突きつけられれば、痛快だと思った。「別な人がよくなったのなら、帰るから」と。
それらのセリフはガイが好まない種のものだ。彼に気持ちを依存し過ぎたわたしには、はしたなく思われ、どのみち口にする意気地もない。
「怒らせたね、僕のせいだ」
ガイはわたしを抱く腕を緩め、代わりに頬に両手をあてがった。長い指が耳朶をくすぐるようにさまよう。
「あなたにそんな風に言ってほしかった。わがままだね、僕は。あなたを傷つけるのに。どうしようもない…」
「…わたしを愛してくれている?」
結局口にするのは、こんな程度のものでしかない。しかも、ほんのり懇願めいた色がにじんでしまう。意趣返しなど遠く及ばす、自分を意地のない女だと思った。
「疑うの?」
「…どう思う?」
彼は少し笑った。「ほら、そんなところは、猫みたいですよ」と彼は言う。「僕の内側に、音も立てずにするりと入ってくる」
「邪魔ではない?」
「どうして?」
こんなに愛しているのに。
ガイの言葉に、わたしは自分から彼へ身を寄せた。待ち望んだ口づけが始まり。それが深まって、気持ちが甘くとても和んだ。不意に彼が唇を離した。椅子から立ち上がり、わたしへ手を伸ばす。
「いらっしゃい」
どこへ、と問う前にわたしは彼の手を取った。引かれて、椅子から立った。わたしの手を引いたまま、彼は歩を進める。
部屋を出るのかと思いきや、壁をぎっしりと埋める書架に並んである目立たない扉を開けた。一度興味で開けたことがあるが、そこは書架に入れない蔵書や、便箋や封筒、ペンなど文房具の予備がしまわれている小さな倉庫だった。わたしと共に中に入り、ガイはドアを閉めた。
天井に近い小さな窓から明かりが少しもれ入る、暗い場所だった。ここに何を? 室内をさまよった目をガイへ向けた。
彼がつないだままの手を引き、わたしを抱き寄せる。すぐにキスを受け、彼の手がわたしの腕や背に這わされた。キスの狭間に、
「僕が列車に乗るにしろ、あなたが行くのにしろ、この後、二人の時間はないでしょう」
「え」
「嫌? こんなところで、あなたを求めるのはおかしい?」
言葉を返せない。
「どうしても、触れたい」
寝室以外で抱き合うのは初めてで、そのことに戸惑い恥じらった。しかし、しばらくの後で、わたしは何も言わず、代わりに、全てを委ねるように目を閉じた。ガイの性急さに、既にうっとりとわたしはときめいているのだ。だから、声になるのは、どうせ本音ではないから。
ホックを外したドレスの中に、彼の手が入る。背を滑るその感覚はくすぐったくて心地よく、身体の力が抜けてしまう。膝が崩れ、そのまま床に尻もちをついた。
わたしを支えようと、彼も床に倒れ込む。おかしかった。わたしは打った痛みに顔をちょっとしかめているし、急に床に屈んだガイの肩には、はたきのものらしい小さい羽毛が乗っかっている。
こんな場所で抱き合うのだ。いつかのように彼がわたしの衣装を解いた。情事の後で、ややこしいコルセットをどうやって着るのか、ふと気にかかる。彼が脱いだジャケットを床に広げ、その上にわたしを優しく寝かせた。
慌ただしく、けれども触れ合いは密に、生々しく深まっていく。たとえば、発した言葉以上に、雄弁に互いの思いを語るのかもしれない。疑いなどないのに、どうしてだか、確かめたくなる。これほどに愛しているのに、信じ合えないと、揺れた気持ちが交差する。
口づけ合い、剥き出しの乳房を触れられる。脚の奥に彼の指がしなやかにうごめいた…。それを望んで許す自分も、求める彼も。言葉を省けば、愛情の中でわたしたちは、こんな風に寛いで快楽に溺れていられる。
なんて簡単なのだろうと思えた。
こんなにもガイを愛している。何もかも、あなたが好き。
「愛している、あなただけを」
「あなただけ、愛せるのは」
秘めやかに、甘やかにわたしたちは思いを重ね合った。何かがきっかけで起こる、掛け違いもすれ違いも、それで行き違うことも。いいのかもれない。
互いを持ち寄り求め合う。それぞれが絡めとられていく。合致するものが結びつく、答え合わせにちょっと似ている。混じり合い、離れ難いある一つになるのだ。互いの抱えていた屈託は溶け合い、わたしたちの中で薄らいで色を変える。
愛するとは、もしかして、許して受け入れ、自分の領域を広げることなのかもしれない…。
それは、ガイの腕がわたしの脚を抱えたときだ。物音に、すぐ傍のガイと目が遭った。音はドアの向こうからしてくる。
食器が触れ合うような、耳慣れた音に、小さく人声が混じった。「…下げて構わない。お姿がないのは、どうしたことか…」。「…りません、お見かけしていません…」…。
一つはハリスのものだ。それに、応じるのはメイドの誰かだろう。
耳を凝らし、息を詰めるわたしの前で、ガイが唇の前に指を立てた。彼の持つわたしの脚の白さが暗がりの中、浮き立って目立った。こんな場を外の二人に見られれば、言い逃れもできず、誤魔化しも効かない。事の流れに、度を失いそうになる。
彼はごく小さくわたしの耳に囁いた。
「ここには来ないから、そのままでいて」
そんなの、わからない。いついきなりドアが開くか、胸が早鐘を打つようにどきどきと鳴る。知らん振りで行為を続けるガイの大胆さに、信じられずに無言で彼を睨んだ。また囁く。何の保証もないのに、「大丈夫。任せて」。
抱き合った後、暗い中たどたどしく衣装を整えた。ガイは楽だが、わたしは厄介だ。コルセットを締めてくれながら、彼は声を殺して笑っている。
「お嬢さんが、その可愛い目でひどく睨むから、僕は、あなたに許されないことをしでかしている気になった」
そののんきさにちょっとふくれながらも、やや唇を噛んでやり過ごす。淫らな誘いに易々と乗ったのはわたしだった。
ガイがそっとドアを開けた。書斎に人はいないらしい。
わたしの手を引き、外へ連れ出す。その明るさに目がくらんだ。そして、彼のジャケットの背がすっかり埃で白く汚れてしまっていることに気づいた。どうしたって、そんなものを着ているガイはおかしい。脱いでもらい、腕に抱えた。そうして自分の顔を映すため、壁の飾り鏡の前に立った。結った髪がつぶれ、その乱れは隠しようもない。
「着替えましょう、早く来て」
彼の手を取り、書斎を抜け出す。出てすぐハリスに会えばややこしい。気が焦る。手をつないで二人で急いで歩く。階段を上りながら、ふとおかしくなった。
互いの意見の行き違いに、わたしはちょっと前涙していたはずのなのに。それから少しのちには、決して明かせないあんな情事の痕跡を消すため、二人してこんなにも慌てている…。
「どうしたの?」
喉の奥からこみ上げるおかしさに、押さえ難く、手の甲で声を殺して笑った。思い出すように彼も笑う。「ね、面白いでしょう?」
「ええ。わたしたち、馬鹿みたい」
おかしかった。そして、ガイとのこんな瞬間が嬉しくて、楽しかった。




             

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