さようならの先に
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相馬さんはガイの言葉へ返さず、少し頭を振った。自分なりに彼の話を反芻しているようだった。間を置いて、
「さっきから、伯爵は我々と言うが、あんたも、こっちの世界の人々も、わたしたちと同じなのか?」
「同じですよ。僕を含めこちらの世界の者も、可能性を意図すれば、別の世界を生み、何かの法則でそちらに移る。僕のような役目を持った人物が、もしかしたら、どこからか迎えに現れるのかもしれない。僕は知りませんが、あるのかもしれない。…それらが入り乱れて、交差して、いずれかのタイミングで、僕はあなた方に出会えた。いつかの段階で互いに意図した以上、定まった偶然ですが、奇跡のようだと思いませんか?」
やはり相馬さんは、ガイの話に唸るような声をもらしている。そして、ガイは自分の話を「信じなくてもいい」と言った。単なる解釈だと。しかし、その声は確信に満ちていて、幾度もの経験を経、辿り着いた彼の真実であるのだと感じる。
願い。意図された可能性。それが合致し、あり得ないほどの小さな確率で、わたしたちは今を共有している。そうであるのならば、紛れもない奇跡だと思えた。
ふとガイを見る。彼はゆったりと暖炉の前を歩き、隅の火掻き棒を手にした。少し背を屈め、静まった火を掻き回して起こしている。盛んになった火が、わたしの頬を穏やかに炙る。いつか、わたしがどこかで生んだ可能性が、こうして身体を温めている。ガイの存在を、わたしは奇跡に思う。
時計を見た。時刻は九時を回った。もう列車はいつでも現れてくれるはずだ。
しかし、相馬さんは夜が深まることに焦れる様子もなく、ガイに質問を重ねた。謎についての疑問は、これを逃せば訊く術もないのだ。今を惜しむ気持ちはよくわかった。
ガイもそれに慇懃に応える。この内容を話し合えることを楽しんでいるかのようにも見えた。
これほどあっさりと自分の役割について語る彼を、意外に思った。わたしはこのことについて、詳しく問う気もせがむ気も持たずにきた。彼からそうしないのであれば、求める気持ちは起きなかったのだ。
こんな重要事ですら、わたしはどこまでも受け身で、ガイの意志をまず気にした。それは純真というより、わたしの中の彼にもたれかかる怠惰のように思う。
幾つか交わされた問いの後で、ふと耳に飛び込んだのは、相馬さんの声だった。
「…っきの、大きな願いが叶わないで、こんな気にもしなかった部分だけ叶うのはどういう理由なんだ? 叶うのじゃないな、並行した世界に「ある」のに、そこに行けずに目の前に現れないのは?」
「重病や、大金の例えですね」
「そうそう。そこが訊きたい。帰ったら、一山当てたいからな」
「ははは。これまでの話は、僕なりに原因と結果の追求を行っただけで、その内容を、目的を果たすためと捉えたことはないのです。だから、先生の参考にはならないかもしれません」
「そりゃ、あんたの身上なら、欲張る理由がない。もっと下世話な庶民向けの配慮を頼むよ」
ガイは笑って応じた後で、「これは、お嬢さんの前に来た博士が気づかせてくれたのですが…」と前置きをする。彼はマントルピースに背を預け、吸わない煙草を指で弄んでいる。それを見て、ふと思いついた。相馬さんへのお餞別に作った小箱に、ガイの煙草を数本しまおう。
わたしは立ち上がって、窓辺のチェストでそれを果たした。その背にガイの声が届く。できた小箱を椅子の傍らに置いて座った。
「実は、僕は過去にひどい結婚をしていました。お嬢さんは、このことはよく知っていますが…」
ガイがレディ・アンとのことを話すのに、どきりとした。どうして彼女のことがここに出て来るのか。
美貌の令嬢で自分もその気になり、条件が合った家同士の結婚だった、と彼は補足する。こんな他愛のない説明にも、わたしの胸はちくんと痛んだ。嫌だった。彼の口から彼女のことを聞くのは。
「しかし、合わない相手との結婚生活は、じき破綻しました。それでも、別れられない。理由は幾つもありましたが、相手が納得しないのが大きかった」
「あんたの奥方で、伯爵夫人の座はそうそう渡せないだろう」
「その程度の野心を持つ、可愛らしいタイプではないのですよ、元の妻は。ともかく、別れられない以上、必要で睦まじい夫婦を演じます。二人になれば、話もしませんでしたがね。…僕は、とにかく毎日が嫌で嫌で堪らなかった。彼女が死んでくれないかとさえ願った」
非常な告白に、相馬さんも相槌を打たなかった。こちらを見た。その目に、わたしは小さく頷いて応じた。ガイからの伝聞だけでなく、わたしは彼女の人柄をよく知っていた。あの恐ろしさも、狡さも。
「そんなとき、博士のある言葉がひどく響いた。「願いに優劣はない」のだと。僕は目の前で、何かが破裂したように感じました。嫌だ、嫌だ、日々思う。それだって紛れもない願いなのではないかと。意識しないだけ強く、抵抗もない。だから、その状況が目の前に常に展開してしまう」
「嫌だと思っちゃいけないのか? それは難しいな…」
ガイは首を振った。そうじゃない、と。何の可能性を意図してもいい。その自由はある。そう言った後で、ちょっと笑い、
「抵抗が叶うことを、妨げているのだと思います。いや、抵抗してもいい。申し訳ない、少し伝えにくいのです。何というか…」
わたしはふと、言葉を挟んでいた。
「受け入れるのね、全て」
ガイはわたしを見た。ちょっと目を見開き、驚いた顔を見せる。何となく、その瞬間感じられた。彼が過去に抱いた日々への拒絶感。嫌だ、嫌だ…。凄惨なあの時期に、幾度繰り返しただろう。
嫌だ、嫌だ。
ここに来る以前、ガイに見い出される前のわたしも、同じくそれを思っていたのだ。嫌だ、嫌だ。父の自殺と、得体の知れない縁談。頼りに思っていた人物の裏切り…。自分を取り巻き始めた環境が信じられず、ただ怖がり、自分への憐みにのまれていた。
嫌だ、嫌だ。
ガイの過去のそれと、わたしのあのときの感情が共鳴し、引き合ったのだとしたら…? いつか彼がわたしに言ったではないか。懐中時計の鏡に映る人物が、彼を呼ぶのだと。
 
わたしが、彼を引き寄せた。
 
彼と目が合う。もう驚きの消えた瞳はかすかに笑んで、わたしを見ている。わたしの言葉を引き取り、
「そう、受け入れることが肝要かと。渦中にあれば難しいでしょうが、それすらも認めればいい、全部。…そこで、先ほどの時計の例えに戻るのですが、あれには疑問がないはずです。当たり前にそこにあると信じていられる。だから容易く目の前に展開してくれる」
短く唸った後で、相馬さんが、
「逆に言えば、信じ難いものほど、囚われることは少ないから、「ひょっとして」が起こる…ということか?」
「その通りです」
「わかったような、わからんような…。だが、実際ここにいるのだから、あり得る話なんだろう…。ところで、伯爵、前の奥方とのその後はどうなるんだ?」
「そっちですか?」
「今の奥方がある以上、何となく結末はわかるが、気になるだろう。その、死別になったのかね?」
「いや、円満に離婚が叶いました。彼女はぴんぴんしていますよ。信じ難い「ひょっとして」が、僕にも起きたのです」
ガイは相馬さんの言葉を使い、ごく端折った話を終えた。彼は気づいているのだろうか。わたしが彼を引き寄せ呼んだのと同じく、彼だって、わたしを招き引き寄せたことを。知らずに互いの意図が絡み引き合って、だからわたしたちは出会えた。こうしていられる。
こんな今、しっくりと深く腑に落ちたそれを、運命というと易しい。しかし、それはやはり奇跡だと思う。
ガイはわたしの側に来て隣りに掛けた。「大丈夫?」。そろそろ列車に乗るべき時刻で、それを促しているのだ。
わたしは傍らの小箱を膝に置いて頷いた。
相馬さんはナプキンで眼鏡を拭き、「そうそう」と顔を向ける。
「もう一つ教えてほしい」
「僕に答えられるのなら、何でも」
「伯爵は、迎えに行ったのが三十人だと言った。でも、こちらに連れてきたのは二十五人だと。差の五人は、どこへ消えた。来たがらなかったのか?」
「いえ、遅かっただけです。僕があちらに行ったときには、その人物は亡くなってしまっていたのです。僕は魔法使いではありませんから、抜けた魂だけを伴ってこちらへ渡る訳にもいきません」
「十分魔法使いみたいなもんだがね」
ガイはそれに笑った。「僕は魔法使いだって」とわたしを見る。ふと笑顔を向ける、わたしへの彼のその親しみは、胸にしみ入るようだった。
「夜半に近くない方がいい。そろそろ…」
声に立ち上がった相馬さんへ、彼が手を差し伸べた。握手を交わす。短いが心のこもった挨拶を繰り返し、わたしの背に手を置いた。耳に囁く。
「迎えに行くから」
「駅で動かないで待っていて」。なじんだ彼の声にきゅんと胸がときめく。早朝に近い頃、役目を終えたわたしを彼が出迎えてくれる。当たり前に来る未来で、疑いのないそれがわたしを包む。




             

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