天涯のバラ
15
 
 
 
五年ぶりに会った彼は、雰囲気が変わっていた。スマートで洗練された様子はそのままだが、単なる経年を考慮しても、彼女のよく知る彼とは、どこかが違う気がしてならなかった。それに彼女はすぐに気づき、驚いたのだ。
以前の彼は、傲岸で怖いもの知らず。不遜な表情をいつも頬に張り付けていた。ふと彼女へ優しさを向けてくれるが、それはびっくりするほど早く引き上げられてしまう。そのことに、自分はびくつき怖がり、戸惑っていたのを思い出す。
数日前、彼から結婚生活の真実を打ち明けられた。その意外さ驚きは大きく、今でも去らない。
彼を夫とした女性の是非はともかく、彼女は彼を包む悲劇を思った。順風満帆に生きてきたはずの彼の、思いがけない落とし穴だったに違いない。
今の彼は、目尻に笑うと皺が寄る。本人は気づいているかどうか…。物腰がより落ち着き、以前の横柄さはなりをひそめている。秀麗できつさが目立った顔立ちは、ただ整ったそこに年が重なり険が抜けて、趣を変えた。種々の経験を積むことでできたはずのその相貌を、人は精悍だと言うのかもしれない。
(あんなに…)
繰り言のように思う。紫織と彼の似合い睦まじかった様子は、今も鮮やかに瞼に映すことができる。
(それが、嘘だったなんて…)
スクリーンに目を向けながら、彼女は思う。
大き過ぎた恋を失い、葬って今に至る。自身の根に及ぶそれは、彼女の全てを揺らがし、何もかもを変えた。変えなければ、生きていけないと喘いでいた。
手に入れた幾つかのキャリアは輝かしく、彼女を成長させ磨いてきた。しかし、キャリアも栄光も、獲ったと瞬時に価値は褪せていくのだ。その果てに、空っぽに近い自分が家族を持つ夢を思いつく。それで、今も引きずる喪失を乗り切ろうとした。子供を持ち、愛しつつも不器用に育てていくのだ。苦労した亡き母のように。
一方、彼は、惨めな結婚を隠して取り繕い、日を送る。いつ果てるとも知れないそれは、今も彼を蝕むのだろうか。あの告白の夜、彼女に打ち明ける彼の声は、努めたように淡々としていたが、端々に自嘲と悔いがくっきりとにじむのがわかった。
辛いのだ。振り返ることすら、惨めで悲しいのだろう。
彼は一度、紫織との婚約を破談にしようとしたと言った。理由は明かさなかったが、おそらく紫織に原因があるはずだ。その後の自殺未遂につながる、何かを彼は見つけたのだろう…。
頭のいい人だ、とっくに損得を図り、所詮は政略結婚だと、気持ちの折り合いをつけているのかもしれない。
しかし、それを彼女は、彼のあきらめだと見た。口にしないが、彼は破談してまで守りたかった、誰もが密かに持つ、心のあるエリアをあきらめたのだ、と。そこに人は、きっと夢や願い、そんな大事な何かをしまう。
告白の後で、彼が話したことを思い出す。「俺には新橋に芸者の愛人がいるんだ」。意外で驚いたが、彼の地位ならそういう振る舞いもあるのかもしれない。気になったのは、紫織側への配慮だ。破綻した結婚生活でも、大層な家柄の妻なのだ。
「向こうは何も気にしないよ。それどころか、以前から女の気晴らしを勧められていたと言ったら、君は驚くだろう。あの妻の夫でいてくれるなら、愛人の一人や二人は許容の範囲なんだよ」
へえ、と相槌を打ったら、彼がふき出した。ぽんと彼女の頭を軽く叩き、「ちびちゃん、君のことだぞ」
「え」
以前彼女が彼に頼んで芸妓見習いをした際、そういう噂が立ったのだというから驚いた。
「ええ?! そうなんですか、ごめんなさい」
「いや。誤解されるのも都合がいい。だからこれから、君はパーティーなんかで、誰かから俺の新橋の愛人の話をほのめかされていても、それは演技の勉強のために芸者に扮した自分なんだとか、申し開きをしないでくれよ」
そんなことを面白そうに言っていた。誤解なら解けばいいのに、と彼女は何が面白いのかわからなかった。
彼はあの話のとき「女の気晴らし」と言った。セクシャルな意味だと、彼女にもわかる。なので、自分はそうではない。しかし、誤解を受けるほど、芸妓のなりをした自分は彼の側でそれらしかったのだろうか…。
(ちびちゃんでしょ、わたしは)
自分の肩にもたれた彼の頭を重く感じた。大晦日の深夜の映画館に客はまばらで、仮眠スペースの代わりにしているような者もいる。映画は全てが古く、アクションがやたらと大袈裟で、今の演出に慣れた目には、滑稽さを感じるほどだ。
しかし、世話になった名監督の今の作風への系譜を辿るようで、興味深かった。目も頭も映画に向けながらも、思いはあちこちに飛んだ。普段になく、彼女は映画への集中が難しいと感じた。
(あの速水さんと、二人で年越しをしながら、ヤクザ映画を観るなんて…)
おかしいような、あきれるような。過去の自分には、決して想像がつかないはずだ。隣りで彼女へ頭を預け、ぐっすり寝息を立てている彼にしたって、同じに違いない。
ふと、自分たちが、あの頃よりひどく遠い場所に来てしまっているのを意識した。
偉そうで常に意地悪に見えた彼。その彼が放つ意味を込めた辛辣な言葉は、彼女をかつて打ちのめし、苛立たせてきた。どうであれ、彼女だけでなく、きっと彼も目的に真っ直ぐだった。前へ前へとひたすらに。
先を感じ取ることに懸命だった日々。ほんの少し未来を知ることが、彼女には何よりの幸福で、彼には手柄であったのかもしれない。
振り返れば、そうだった、ああだったと過去を評することはできる。それでも、ぐったり疲れて、先を夢見ることも措く彼と、空きっぱなしの心の穴を埋めるため、誰の子でもいい、ただ産みたいと望む自分が、悲しくても、同じだけ愛しいのだ。そう思う。
思い描いた幸福から、なんて遠くまで来たのだろうか。なんて、遠い…。
何も考えずに、憎たらしいと感じた彼へ、全身でぶつかっていけた過去を幸せだったと思う。他愛なくそれを笑い、屈託なく受け止めてくれた彼も。きっと、幸せだったのだ。意識しなかっただけで、そうと気づかなかっただけで。
規則正しい静かな彼の寝息が届く。
彼女はスクリーンから目を逸らさない。機械的にポップコーンを口に運び、肩にかかる彼の重さを感じてた。
間違いのない、現実として。




           


パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪


ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪