天涯のバラ
16
 
 
 
予定通り、正月が明けると彼女はアメリカに渡った。
新年を迎え、また彼にはこなすべきパーティーが幾つも増えた。それらに出席し、習慣的に大勢の客ににこやかな挨拶を交わす。そうしながら、会の中程にはじっとりと疲れがたまるのを感じるのだ。
この数か月、隣りには彼女がいた。仕事と割り切っているようだったが、愛嬌があって客あしらいも巧く、華のある有名女優だ。彼女と話すことを、誰もが喜ぶ。パートナーとして彼女ほどの人材はいない。
その彼女はいない。それだけで、社交の時間をつまらなく味気ない単なる業務に変えてしまう。これを済ませた後も、一人だ。以前はそれで平気でいられたのだ。それなのに。
彼女にすっかりもたれかかってきた事実を思い知った。適度にさりげなく自分を思いやってくれる、あの小さな彼女の優しさもしみじみ懐かしい。
数度のパーティーの後で観念し、どうしても外せない重要なものは出るが、それ以外は風邪を引いた振りで逃げた。自分で予定を変えたくせに、いつもの調子が狂ったようで面白くない。機嫌も悪くなった。
どうやら自分は、彼女が恋しいようだ。
「本当にわかり易い方ですわね」
陰気にむすっと仕事をこなす上司に、秘書の水城はさらりと言ってやる。グループのまとめ役に就いてから、ワンマンな大都芸能色を払拭しようと、彼は概ね穏やかに人を使ってきた。声を荒げることも稀で、よく意見を容れた。
それが、年が明け数日経った頃から、様子が変わった。些細なことに苛立つのがわかるし、ふてくされた表情で、控え目になったはずの煙草ばかりが増えた。
秘書の言葉の意味などわかり抜いていたが、知らん顔で訊き返す。
「何がだ? 夕べ帰りに寄ったジムで、〜会の顔役の●◎さんに会った。高熱でダウンした俺が、その晩に水泳だぞ。言い訳に四苦八苦した。君には迷惑だろうが、機嫌くらい悪くなるよ」
自業自得でしょ、と秘書は笑った。
「どうごまかされたのです? 高熱を出したのは噂の『新橋の彼女』で〜、とお逃げになったので? 艶聞にはご理解のある方でしたわよね」
水城があてこする通りだ。
違うのは高熱ではなく、急性腸炎を使ったこと。「身体が弱っているときにこそ、旦那風を吹かしてまめまめしくやらんとな。そこが拗ねさせないで、上手くつき合うポイントだよ。結局は、金じゃないんだ。ああいう子たちはね、部屋や毛皮を欲しがってはいても、本音では実のあるところを見せてもらいたいだけなんだ。寂しがってるんだよ。そうそう、速水君、若くてもてるからって油断していると、×山さんにお気に入りをかっさらわれるぞ。あの人もね、他人が目をつけて、こうほぐして調子のよくなった頃合いの女を味見するのが好きでね。まあ、ほどほどに、頑張んなさい。はは、これはお互い様だ」。
色ごとに理解のある先輩実業家で助かった。理解があり過ぎて、ねちっこいアドバイスはありがた迷惑だったが。彼は深く詫びて、話を合わせておいた。
「五年も空いての焼けぼっくいですものね。お気持ちはわかりますけど、たったひと月が我慢できないのなら、将来マヤちゃんがお嫁にでも行ったら、どうなさるおつもりですの?」
皮肉は痛烈だ。
「祝ってやるよ」
「まあ、それは楽しみにしております。ブライダルの手順は今も覚えておりますから、社を挙げてのお祝いの支度は、ぜひお任せ下さい」
「君と聖はベトナムで二人きりの式をやっただろう、あれがマヤに役に立つのか?」
「何をおっしゃっているやら。参考にするのは、ど派手な社長のご結婚のお仕度の方ですわ。あれほどの参考資料はございません。式も引き出物も新婚旅行先なども、あのマヤちゃんが喜ぶとはとても思えないセンスですけど、インパクトではきっと同じレベルをご提案できますわ」
紫織と鷹宮家の好みの、ふんだんに金を使った式や披露宴などの、キャンセルになったそれらを処理したのはこの水城だ。業務外に、散々苦労を掛けた。その際、水城は彼の補佐をする聖と顔を合わせた。二人は仕事上協力することもあり、ほどなく気持ちが通うようになる。その後結婚に至ったのだ。
普段はこうまで彼に手厳しい言葉は使わない。そして、過去の手柄を誇る秘書ではないが、ことマヤ絡みの件になれば、その慎みを忘れるらしい。
かつて、退職も辞さないほどの勢いで、何度も彼に紫織との結婚を思い止まるよう進言してきた。彼はそれに耳を貸さず、ようやく動いたときには全てが遅かった。タイミングを逸した行動が、却って彼を身動きしがたく追い詰めていった…。
物事には逃していけない機会があるのだ。手ひどい結果に終わった結婚は、彼にそれだけを教えてくれた。
秘書の苦言に言葉も返さず、彼はやはりふてくされた。
(だから、俺に何ができる?)
 
 
現地に二泊の予定でアメリカに向かった。
目的は、あちらの企業の買収契約の締結のためだった。西海岸を中心に三十数店舗を展開する中堅フィットネスクラブだ。質のいい企業内容だったが、数年、ヨーロッパ風のスパを展開する大資本に押され、会員数もじり貧らしい。
向こうで斜陽の企業を引き継ぐつもりはなく、構築のシステムとできれば優秀なスタッフを買い取りたいのだ。そして、そっくり同じ看板を使い、日本と大都グループになじんだやり方で、首都圏・大都市圏を手始めに展開していく計画だ。
ライセンス契約でと渋られ続けたが、幾度もの説得が効いて折れてくれたのは昨年末だった。詰めの視察と誠意を見せるつもりで、時間に都合をつけ、彼が自ら出向く運びになった。
渡米の際、彼女にそれを知らせるメールを送った。ついでにフィットネスクラブの名を出し、知っているかと訊いた。
『一度だけ行ったことありますよ。内装がちょっとない感じの素敵な所でした。ドラマのスタッフが会員で、ビジターにしてもらいました』
なるほど。『ハリウッド女優御用達』、『セレブが夢中!』と、おいおい、と思えたイメージ戦略の青写真が上がっているが、使えそうじゃないか。うちには、ハリウッド女優がいる。
着いたのは昼だった。日本に比べ温かで、コートを脱いだ。現地の支社から迎えが来ていた。彼らとそのまま、クラブの視察に向かった。時間が惜しい。契約の締結が夕方の約束で、調査の報告はくどいほど入れさせたが、自分の目で最後の確認を行いたいのだ。
時差で食欲があまりなく、テイクアウトさせたコーヒーついでの簡単な軽食で済ませた。早足で支店を幾つも回る。客の振りでスタッフと自ら話した。
納得できたところで、宿舎のフラットに車を向けた。着替えなくてはいけない。この後相手の会社へ訪問し、その後食事を共にする予定なっている。
石造りの堅牢な建物は、五階建てのごくゆったりとしたスペースに、数世帯が住む。彼はよく知らないが、企業の利用がほとんどで、スターの誰かも所有しているらしい。フロアを買い切り、宿泊の際は、家政婦の女性を頼んでいる。
荷解きもせずに、トランクから着替えのスーツを出した。シャツを替え、グレーのそれを着てタイを結ぶところで人の気配があった。
寝室から出て、玄関ホールへ向かうと、案の定彼女だった。撮影帰りのようだ。つばの広い帽子を被っているが、着ているのはやはりあのアイボリーのワンピースだった。
久しぶりに会う彼女に、胸が高鳴った。目に飛び込むようにその姿が映る。頬を緩め、彼は声をかけた。
「やあ、ちびちゃん」
「速水さん!」
空港に迎えに行けなくて悪かったと詫びた。「少しくらい抜けられると思ったんだけど…」
「いや、来てもらっても、相手もできなかったよ」
彼はこれから出かけるが、気にしないで好きにしてくれていいと言った。
それじゃあ、自分も出かけて来るという。ドラマの監督とスタッフに食事を誘われているのだ、と。
「行っておいで、朝食には会えるだろう。そうだ、無理には言わないが…」
明日の夜呼ばれているホームパーティーに一緒に行ってくれないか、と頼んだ。彼女は易く頷いた。
「どうだ、何か住まいに不便はないか?」
「とんでもないです。こんなにゴージャスな所だと思わなくって。てっきり、合宿所みたいな場所を想像していたから」
広いバルコニーは遠く海を望めた。寝室が四つ、オフィスにもなる書斎スペースに、簡単なパーティーもこなせる規模のリビングとキッチンが備わっている。
迎えを知らせる電話が鳴った。彼を外へ見送りながら、彼女はもじもじと、バルコニーのジャグジーを使っていいのか訊く。
「なんだ、使っていないのか?」
もったいないとか、入ったことがないからなど、遠慮がちにごにょごにょ言うから呆れた。この時期、配慮して彼女の専用にしてある。誰もいないのだ、備品も何も、勝手に使えばいいのに。そのための用意だ。言うまでもないが、つい、
「水着を着ろよ」
「え、お風呂なのに、裸じゃないんですか?」
それに彼は笑って答えに代えた。ときに出る、変わらない彼女の世間知らずが、懐かしくて可愛いのだ。この場は公表していない。可能性は低いと思いつつ、「望遠レンズで撮られても知らないぞ」とからかった。
「水着買って来なくちゃ」
ぼそりとつぶやく声が背中で聞こえた。
契約は無事済み、その後食事を共にした。オーナーは、売却後に海を超えてしまうおのれの事業に、こだわりも残るようだ。同じ内容の問いを、言葉を変え訊かれた。彼はそれに辛抱強く答えた。
帰れば、リビングのテーブルにメモがあった。彼を待っていたが、「明日早いので寝ます」とのことだ。食事会の後で、支社に回り仕事をこなしたから時刻は深夜に近い。当然だった。
翌朝は、彼女の方が早起きだ。起き抜けに顔を洗い、リビングへ行くと、彼女がヨガに忙しかった。まるで軟体動物のようにマットの上で器用に身体を折るのを、コーヒーを飲みながら眺めた。
これをみっちり小一時間もやるというから、女優は大変だ。「気持ちいいですよ」と、彼女は涼しい様子だ。彼も気分転換にジムに泳ぎに行く習慣がある。集中して身体を動かした後の爽快感は格別だ。それと似たようなものだろう。
「それは何?」
幾つかのポーズの後で、必ず身をのけぞらせる体勢に戻る。ぴたりとしたTシャツの下の彼女の胸の形が、露わに浮き立つ。ふと目がそちらに止まるのを引き剥がした。
「『英雄のポーズ』です」




           


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