天涯のバラ
17
 
 
 
仕事の後で、フラットに戻った。着替えと彼女の迎えのためだ。ホームパーティーだが、ホストは契約を結んだオーナー夫妻だ。還暦を超え、代々の会社経営を堅実に営んできた資産家だと聞く。ラフ過ぎる装いはまずい。自分はスーツで構わないが、彼女はどうするのだろう。
自分の用意を終え、在宅している彼女の寝室をノックした。
「どうぞ」
と声があり、ドアを開けた。彼女は着物姿だった。ほぼ仕度を澄ませ、ベッドに横座りして脛を出し、足袋のこはぜを留めていた。
薄紫にピンクが勝った色合いの訪問着で、胸と裾に桜模様が散っている。華美過ぎず品がある、落ち着いた柄だ。驚いたのは、自分で着つけも済ませてしまうところだ。こちらのパーティーでは着物女性が珍しく喜ばれる。幾度もそんな場を経験し、必要から技術を習得したのだろう。
髪は結わずに肩に垂らしている。それで、少し古風な印象になった。着物はどうしたのか訊けば、自前だという。今回の滞在でも要るかわからないが、荷物に詰めてきたのだ、と言った。
「いつやって来るかわからないんです、必要なときは」
防災グッズのように言うからおかしい。彼女には大差などないのかもしれない。
「服は買わないのに、着物は買うのか」
「試したんですけどね。着物の場合、レンタルはドレスと違って回転が悪いのか、柄も生地もう〜んと思うことが多くて」
あと一枚持っていて、交互に使うのだとか。
呉服物の価値に彼は疎いが、紫織の嫁入り仕度にも着物が多くあり、その一枚一枚が、ほぼ車と同じ価格だと聞かされたことがある。帯などもまた別で値が張るものらしい。門外漢だが、その目にしっとりとして上質に映る彼女の物も、そう遠くもないのではないか。
欲しいものがないと言い、実際欲が淡く、女優らしくもなく同じ服ばかりを着回している。また、演劇協会に奨学金にしてほしいと、大枚を惜しげなく寄付する彼女。
そんな彼女が、女優の社交用には、押し出しの効く着物を、帯も含め二着分もあっさりと買っている。
彼女が着物を「制服」に選ぶのは、似合う自信もあろうが、『紅天女』の継承者である意味が強いはずだ。何を演じても、どこにいても、その印象をイメージづけようようという姿勢に見えた。
それらの選択眼は見事だが、いつか耳にした『精子バンク』に通じる、実際的で合理的な、効率だけを考えたやり方に思えてしまう。
(素の彼女の心はどこにあるのだ?)
彼が思いを寄せ続ける愛らしくて可憐な彼女は、既に完全なプロだと知った。
 
ホームパーティーは多くの人々が出入りした。遠来の客である彼と彼女は歓待を受けた。
特に彼女の来訪は、オーナー夫人を歓喜させた。彼女の出演するドラマのファンだという。
「あなたのユキは、最高よ。大好き」
自己紹介が済めば、すぐにハグを受け、彼女は面食らっていた。全米で高視聴率を誇った医療ドラマの中盤シーズンから、彼女はレギュラー出演している。日本人の医師役で『ユキ』というのがその名だ。
彼も、この短い正月休みにドラマ全てを見た。彼女の出る回から見たかったが、それでは話が通じない。やむを得ずほぼ徹夜で、飲みながら観た。当たるのが必然といった、ストーリーに緩急の詰め込まれた面白いドラマだった。
ユキは家庭に問題のある資産家令嬢だ。医師として、物語の舞台の病院に赴任してくる。頭のいい鼻っ柱の強い彼女は、小柄ながら大男の後輩黒人医師を顎で使う。普段の彼女からは想像もつかない個性だ。余談だが、セクシーな衣装が多い。
ドラマだけを観ていると、本当に彼女が、アメリカの名門大学で医学を修めた秀才令嬢に見えてくるから不思議だ。その好演を買われて、のち賞につながる映画への出演を射止めることになるのだ。
「ユキはシーズン10で降りたでしょう? ファイナルで出るって噂なのだけど、本当?」
夫人の追求に、彼女は当たり障りのない範囲で答えた。その興奮振りに、夫のオーナーはやれやれと肩をすくめている。
「ドラマに夢中になり過ぎて、クラブに関係者は全てビジター料金にしてほしいとねだられたよ。大損だが、それで機嫌よくしてくれるんなら、安いものか」
とオーナーは笑った。上品な紳士で、愛妻家なのがわかる。彼はそれを受け、「マヤもその恩恵にあずかったとか。評判がいいと噂していましたよ」
彼女は夫人に伴われ、あちこちの客と話していた。彼はオーナーが主に相手になり、あれこれ話した。日本に興味があるようで、そのうち行きたいと言う。
「フィットネス前はレストランをやっていた。代々会社をやってきて、それで家族を養ってきたが、もう風向きが違ってきたようだ」
「ご子息がおられるのでは?」
「二人いるが、一人はミュージシャンで、一人は歯医者だよ。左前の事業を継がせるのは気が向かないから、それでいいとは思う」
自分の代で事業を畳み、それでも利益は出る。それを基に手堅く運用をして、妻と余生を過ごしたい、そう結んだ。
「会社をしていると、暇がないだろう。アメリカ人でもそうなんだ、君たち働き者の日本人は大変なはずだ」
「そうですね、僕の場合はそれが趣味のようです」
オーナーは首を振る。「もったいないよ、その若さで。悔いを残さないように。やり残してもいい、悔いは残さないようにね」
その言葉は不思議と彼の胸にしみた。やり残してもいい。だが悔いは残さないように。
(失敗してもいい、試さない方が悔やむ、そういうことだろうか)
自由になった手始めに、旅行をしたいというオーナーに、彼は日本に来る場合はぜひご連絡を下さい、と言葉を重ねた。日本での旅の際の便宜を図るのは、ごく易い。
ホームパーティーを辞したのは九時過ぎだった。もっと早く帰る予定が、遅れたのは、人々と話し込んだためもある。
彼女がいてくれて助かったと思う。その存在が、夫人のあの歓迎を呼び、それに連れてオーナー自身の対応にもつながった。事業の展開についても、訊きたかった問題を耳に入れることができた。全体のマネージャー格の人物とも親しく話が出来た。効果は計り知れない。
タクシーで帰った。車内で今夜の礼を言うと、彼女は首を振った。「あの奥さま、あんなにドラマを楽しんでくれて…。直接見ている人のそういう声を聴けるの、ありがたいです。元気が出ます」
夢や情熱だけではきっと続かない。それをつなぐ、観客の「観ている」という声が、活力を産む。
芝居への情熱が彼女の大きな部分を占めていた日々は、もう過ぎたのかもしれない。ときに虚しさに陥り、そのために心の張りとなる子供を望んだりもしている。
彼の目に、急激に変化し大人になって見える彼女に、既に過去の彼を惹きつけてやまなかった、あの青春のきらきらした青臭さはないのだ。
ふと彼女が、
「速水さん、お願いが…」
彼女がおずおずと言う。「ジャグジーに入りたい」と。
「入ってないのか?」
「だって、あんな広いのに、一人じゃもったいなくて…。速水さんも一緒にどうですか? わたし、今日水着も買ってきました」
彼は黙り込んだ。返事に困った。嬉しいのはもちろんだが、その誘いに自分は乗っていいのか。その資格があるのか。単なるジャグジーだと、思う。彼女の節約精神が、そう言わせるのだと。
頭に先ほどのオーナーの言も甦る。悔いを残すなといったそれだ。もし今夜彼女の誘いを断れば、きっと自分は悩ましくくよくよ後悔する。馬鹿々々しいが、きっとする。
「いいよ」と返せば、彼女は嬉し気に、中でビール飲もうっと、とはしゃいだ。




           


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