天涯のバラ
18
 
 
 
髪をお下げに束ねて、彼女が水着姿でバルコニーに現れた。手には冷えた缶ビールを持っている。
先に浴槽に入っていた彼は、ビールを受け取るのに、側に置いた灰皿に煙草を置いた。
彼女は紺地に白の水玉のセパレートの水着を着ていた。ビキニのような過激なものではなく、胸元もしっかり隠しているし、下がスカートになっているような可愛いものだ。
プルトップを開けて、意味なく乾杯した。バルコニーの外は、そのまま見れば、月に照らされた波が遠く見えた。目を下ろせば街の照明がまばゆく輝いている。
ごくごくと喉を鳴らしてビールを飲む彼女は、温かく泡立つ浴槽に身を浸し、「ああ、幸せ」とつぶやいた。
「ご褒美って感じがしませんか?」
「そうだな。贅沢だよ、君とこんな風にしているのは」
「わたしもそうです。紫のバラの人とお風呂に入っているなんて」
「その言い方はいかがわしいぞ」
「え。どうして?」
「ああ、何でもない」
「変な速水さん」
彼女は浴槽の外へ身を乗り出した。そうすることで、超ミニスカートのような水着の尻が、彼へ突き出されるようになる。思わず目が吸いつき、しばし留まった。
不意に彼女が振り返り、先ほどのホームパーティーで、オーナー夫人から、彼女の好きなアーティストとのコネがあることを知ったらしい。楽屋にも入れるライブに連れて行ってもらえるとかで、その許可が欲しいという。
「そのアーティストって、誰だ?」
彼女はよどみなく答えた。聞いたことはある。しかし曲と名が関連づかない。彼はビールを飲み、「好きにしたらいい」と答えた。
「俺の許可なんか要らないだろう。君も独立した立派な大人だ。好きなときに好きな所へ行ったらいい。まあ、連絡ぐらいはくれ。それで安心するから」
彼女が望むだろう答えを言ったつもりだった。それには彼の意地も混じったが。
「はい」
彼女は好きにする、と言った。湯をかき回し、「ここにゴージャスな美女がいれば、成功者の休日って感じなのに」
「君だって、ゴージャスな美女だろ」
欠伸をしながら応えると、「そんな適当に言われても、リアリティーはゼロです」
「ははは。それは失礼」
彼女は膝を抱いて湯に顎をつけている。ごく寛いでいるように見えた。
彼は昨日契約を決めた新規事業のことを話した。コンセプトは『気軽に快適なセルフメンテナンス空間を』で、気楽に健康管理と美容に重点を置いた内容になる。
「女性向けなんですか? トレーニング室、レトロ可愛い感じでしたし」
「いっそ女性専用の方がいいかもな。意見も聞いて、これから検討するよ」
彼女は、ジムに簡単なヘアメイクのコーナーがあればと思っていた、と言う。ジムの後でそのままお出かけが可能になる、というのだ。確かに、そんな設備があれば、女性も通勤前に立ちより易いかもしれない。
もちろんコストが上がれば価格に反映するから、いいアイディアでも採用できるかはわからない。しかし、他と差別化できる新味あるものを考える中、一つの案ではある。
「そうだ、ちびちゃん、オープンとなれば、君にCMを頼みたいんだが、どうだ?」
「ああ、そうですか…」
彼女は苦く笑った。好きではないらしく、受賞後さらに増えたオファーも断っているようだった。今もCMはグループ企業の一社のみだ。自分の作り笑いがあちこち目につくのは、堪らないとこぼす。
「西海岸のお洒落なジムのCMなら、亜弓さんの方が向いていますよ」
彼に、彼女が嫌がる仕事を押しつける気はなかった。残念だが引っ込めておく。彼女でなければ、確かに亜弓になるだろう。イメージ戦略もある。ぜひハイクラスの女優を使いたいのだ。
ふと、大きな声が上がった。階上から聞こえる。喧嘩でもしているような男女のやり取りで、グラスが割れる音もして、彼は思わず身を乗り出し様子をうかがった。
「あなたの浮気癖はもうたくさん!」。女の声に続き、男のとりなすような声が届く。こちらは小さく内容はわからない。
「みっともないのは、あんたの忙しい下半身でしょ!」。「もう限界、出て行って! わたしの家よ!」。
(あ、そうか、スターの住まいは、うちの上か)
彼は笑って彼女を見た。
「スターの痴話喧嘩も、言うことは一般人とあまり変わらないな。そうなのか?」
「知りません」
声は止み、静かになった。男が出て行ったのか、仲直りをしたのか。
互いにビールを飲んで少し黙る。彼が飲んだ缶を横に置いたとき、彼女が彼の側へ近づいてきた。
「速水さん、これからどうするんですか?」
「明日帰って、そのまま社に向かうよ。決算期も近いから忙しいな」
仕事だけでなく、一つ予定があった。今期で鷹通の社外取締役を辞そうと決めている。その話を、やはり紫織に父なり祖父に、直接話す必要があった。聖からの連絡で、きな臭い事実を耳にしたのだ。早い方がいい。
グループ同士提携らしい提携もない、彼が社外役員を辞めれば、単なる婿でしかない。聖の報告の件がどう発展するかは読めないが、大都として痛くもない腹を探られるのはごめんだった。
「明日の予定じゃなくて…、将来のことです」
「は? パイロットでも目指せというのか?」
「見えたんです、さっき、速水さんの背中…」
紫織が斬りつけたあの傷だ。上の階の騒動で、彼が浴槽から身を乗り出した。そのときに目に入ったのだろう。傷口は二十五センチに及ぶ。右肩甲骨下から背骨を渡って左へ緩いカーブで流れるそれは、すっかり癒えたが、手術跡は生々しいはずだ。
傷は残ると言われた。必要もないので、整形処置もしていない。
「あんな大きなものだなんて…」
痛かったでしょう? 彼女は声を詰まらせる。これほどの傷を負わされながら、どうして夫婦でいるのか。なぜ離婚をし、次の人生を考えないのか。彼女が彼に問いたい疑問はこれらのはずだ。
「もう痛くはない。冬に疼痛があるときもあるが、後遺症としては軽いもんだ。忘れていることも多いよ」
彼女は彼の腕を取り、そこに顔を伏せた。泣いているようだった。彼はその仕草に、胸の奥が熱くなった。この傷がまだ痛むときに、こうしてもらいたかった。




           


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