天涯のバラ
19
 
 
 
紫織の行為後、その不始末のすべてを彼がのみ込みむことで処理した。事態に、孫に甘い鷹宮翁もその異常性に顔色をなくしていた。新妻の嫉妬、可愛いわがままなどで済む状況ではなかった。
病室に、紫織の父と共に現れ、二人が彼の前で土下座をした。詫びではない。紫織と別れないでほしいとの懇願だ。
彼を逃せば、紫織には次がない。「あの子にはもう何もない。せめて人並みの妻の座くらい残してやってほしい。不憫だと思って、この通り、収めてくれ」。
斬られた挙句にそんな女を妻にし続ける、自分がよほど不憫じゃないか。
「何度も申し上げましたが、これを機に、絶対に医師の判断を受けるべきです。治療が必要なように思います。僕はまだいい。夫ですから、もみ消せる。彼女が今度どこか公園で、子供相手に同じ振る舞いをしないと、あなた方は保証できますか?」
「…それはわかった、もちろんそうしよう」
紫織に医師の診断を受けさせることと、今後の別居を条件に、二人の意向を受けた。離婚に踏み切らなかったのは、今下手に出ている二人も、時間を置けば態度を変えると見たからだ。
彼が入院した病院は、完全に鷹宮の息の掛かった場所で、カルテはどうとでもでき、実際彼の怪我は、自分で転んで切ったことになっている。
離婚へ話を進めても、同じように紫織に都合よく事実を歪曲されるのは目に見えていた。彼の不貞行為をでっち上げられたら、裁判をしたって勝つのは難しい。
鷹宮の家に大手を振って、紫織との接触を断つことができるのなら、戸籍の事実は構わなかった。そして、愛情を持つことは絶望的だが、自分と出会ったが故、こうまで人生を狂わせた紫織を、やや哀れに思いもしたのだ。
それに…、と彼は述懐する。
(無理をして別れたところで、何があるのか)
その虚無感が、離婚を選ばなかった、一番の決めてかもしれない。
彼は泣く彼女をやんわりと抱いた。
以前にもこんなことをしたことがあった。自分のことで悲しむ彼女の背をなぜ、ふんわりと腕を回す。
「精神的に不安定だが、彼女に非はない。この傷も、俺が転んでつけたことになっている。そんな妻を相手に離婚を申し出ても、認められない。成立するのは難しいよ。別居はしているし接触も断っている。その事実だけで、十分だ。妻の里は『新橋の彼女』も多めに見てくれる度量のある家だしな」
彼女はくすんと鼻をすすり、
「でも、そんなんじゃ、速水さんの人生が食いつぶされちゃう。好きな人と結婚したり、子供を持ったり…、そんなこれからを要らないの?」
そういう未来は、とうの前にあきらめたのだ。その言葉を口にせず、
「ちびちゃん、俺のために泣いてくれるのは、嬉しいが、それほど不幸せでもないぞ。仲の悪い夫婦など、世の中にいくらもいる。離れて干渉し合わず、互いに自由があればそれでいいんだ」
「…速水さん、本当にそう思っている?」
彼女が顔を上げた。彼を見つめる目は、涙にぬれて赤い。ひどくいじらしい表情だった。彼は衝動的に、封じ込めた思いを口にしそうになった。それを堪えて、彼女の頭を自分の胸に抱いた。
「なあ、ちびちゃん、君は子供が欲しいと言っていたな。…俺の子供にならないか?」
「え」
「養子縁組をして、俺の娘にならないか? 君の欲しがっていた家族ができるだろ。どんな応援もしてやるぞ」
ふと思いついたことだったが、妙案だと思った。自分は彼女の父親になるのだ。鷹宮の家は自分が養子縁組をしたことに、文句はつけないだろう。あったとしても、押し通す気でいる。
紫織の荷物は「見ると傷が痛む」と難癖をつけ、実家に送り返させていた。元の通りの速水の邸に、彼女は越して来ればいいのだ。
そんなことを思い描けば、気持ちが弾んだ。彼女は彼の腕の中から、上目遣いに彼を見ている。
「…大丈夫ですか? 速水さん。わたしを養女にだなんて…」
「変人扱いするな」と苦笑して、前置きし、
「君は、『紅天女』を区切りに、紫のバラの援助を「卒業」しただろう。君の意志を尊重してその通りにしたが、それは俺の区切りじゃない。突飛なことを言い出して、驚いているだろうが、君の父親になることで、俺は君への援助の区切りをつけたいんだ」
「はあ…」
気の抜けた返事だ。いきなりの話で、考えもまとまらないのだろう。とっさに拒否が出ないだけ良しとする。
「嫁ぐときも任せてくれ、とびきりの支度をして嫁に出してやる」
「紫のバラ柄の布団とか?」
「あははは、それはいいな。婚礼リストに加えようか」
「要りません。大体、速水さんが後ろにいたら、怖がって、ますます誰も寄りついてくれなくなっちゃう」
「そう言うな。俺の気持ちはわかっただろ。いつでもいいから返事をくれ」
「うん」だか「はい」だかつぶやいた。
「そろそろ出るか?」
彼が腕を緩め、彼女を放すと、逆に彼女が抱きついてきた。彼がしたのと同じでなく、ぎゅっと強くしがみついてくる。
彼女からこんな風にされたのは初めてだ。身体が密着し、嫌でも彼女の温かい肌を実感する。
「どうした? ちびちゃん」
「離れませんから。わたし、速水さんからもう離れません」
え。
彼女の行為や言葉に、彼は幾度も声を失ってきた。降って湧くように突然現れるそれは、いつだって彼を驚かせて、どうしてもときめかせてきた。
「親子になんかならなくたって、離れないから」
「本気にするぞ」
「いいですよ、本気ですから」
彼女はそれで、彼から身を放し、浴槽から出た。側にしゃがみ込み、後ろから彼の顔をのぞくように、
「速水さんの静かな日常を、わたしが壊してあげます。うるさいって、怒ったって知りませんよ。何せ、わたしは豆台風なのでしょ? こっちだって現役ですから」
ほんの側の彼女と目が合った。照れ臭そうに、彼女はそれで行ってしまう。彼から「離れない」と言った熱い声。押し当てられた彼女の素肌。屈んでこちらへ身を寄せた際に、白い乳房が盛り上がって目に入った。
次々見舞ったそれらに、彼はたじろいで、眩暈のような動揺を感じていた。うっかりと身体が男性的に反応しそうになり、それをやり過ごした。
シャワーを浴びた彼女が、バルコニーへちょっと顔を出した。男もののようなおおきなTシャツを着ていた。胸に『坂木龍馬、サムラヘ』とある。駄目な土産物みたいだった。
「そろそろ上がらないと、湯だっちゃいますよ」
「ああ」
返事をして彼も上がった。ざっと拭いて、バスルームに向かう。「おやすみなさい」と言う彼女の背が見えた。
「おやすみ」
素足がぱたぱたと走り、リビングを抜けて彼女は見えなくなった。




           


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