天涯のバラ
（20）
朝食の席が別れになった。これから空港へ向かう彼に対し、彼女はそれに遅れてスタジオに行くという。
コーヒーカップを置き、立ち上がって上着を着た。腕の時計を確かめてから、彼女を見た。のんびりとカフェオレを飲んでいる。
「君のおかげで、契約も上手くいったよ。俺が出張ってきた甲斐もあった。次に会ったとき何かお礼をしたいんだが」
彼女は、はっとして顔を上げた。首を振る。「とんでもない、何もしていません。こんなゴージャスな所にお世話になったし、もうそんな…」
「いいじゃないか。奢らせておけ。ほら、時間もない。何か欲しいものを言ってくれ」
「欲しものがないの、知ってるくせに」
「ないなら、俺がディオールのワンピースでも贈るよ」
彼女はぶるぶる首だけでなく、手も振る。「要りませんから！ そんな高級な服は。着ていく所がありません」
こういう反応は予想の通りだ。
「大女優が惨めなことを言うな。俺と会うときに着たらいいだろう」
「速水さんと会うときは、もう決まった服がありますから」
「そうだろうな」
早くしろ、と急かせば、目をあちこちにさまよわせる。「あ」と手を打ち、「じゃあ、ワインをいいですか？ 今度会うとき、一緒に飲みましょう」。
以前に知人から、おいしいワインの銘柄を教わったという。
「いいよ。名前は？」
「えっと、確か、とても有名だそうで、ヘルペスだったかな…」
彼女の勘違いに彼はふき出した。「ペトリュスだろ？ きっと」
「そう、そんな感じです」
「買っておくよ」
それで彼女とは別れた。階下で待つ、支社からの迎えの車に乗って、空港へ向かった。その途中、さっき別れた彼女とのおかしなやり取りが思い出された。頬が緩み、つい笑ってしまった。
（ヘルペスって…。ぺ、と、スが記憶に残ったんだろうが。大違いだ。何が「そんな感じ」だ）
耐え切れずに、大笑いした。
助手席の男が、社長が笑うのに振り返った。冷静沈着な人物で通るのだ。げらげら笑うのを噂にも知らない。
帰国後、その足で連絡をした鷹宮家に向かった。紫織の祖父が在宅しており、彼が社外役員を辞したい旨を告げると、口元を捻じ曲げた。
「それはどういう…」
彼はそれに、鷹宮の親族である他の役員の一人に、自分は嫌われ抜いていると言った。「何のお役にも立てず、報酬だけを頂戴するのも、確かに『給料泥棒』とお叱りを受けても仕方ありませんから」
酒の席とはいえ、同族意識の強いその男に面前で罵倒されたのは事実である。紫織との婚約時からの彼への敵意で、今頃どうのと言うことでもないが、取りあえず口実に引っ張り出してきた。
鷹宮翁はうろたえ気味に、慰留した。相手を叱っておくだの、君に謝らせるだの。それを見ながら、彼はこの人も老いたと思った。五年前の周囲を畏怖させるような覇気がない。
結婚を理由に彼を鷹宮に引き込み、幾らか旨い目を見せつつ、じわじわ大都グループを乗っ取ろうと図ったあの狡猾な意気込みが見えないのだ。
老いのきっかけは、紫織の変化だ。溺愛した孫娘が彼を斬りつけたあの事件が決定的だった。グループ同士の提携が進まないのも、この人物が尻込みをしてしまっているからだった。トップの弱腰は下に伝わる。彼はそれを嗅ぎ取って、誘われる鷹通側の役職もほぼ断った。害も実質もないものが、今回辞した社外役員だった。
紫織の伴侶として、内側に取り込み懐柔し操るつもりが、壊れたのは紫織の方だ。本音では彼を厭わしく思うだろうが、孫を思えば切り捨てることもできない。あの状態にある紫織に、望み得る最上の相手は、彼しかいないのだから。
世間話を少々、義父の健康状態を伝え、邸を出た。
面倒事を片付け、彼は社に車を向けた。水城に連絡を取る。これから帰社することを伝え、向こうの用件を聞いた。電話を切る間際に思いついて、秘書に頼んだ。状態のいいペトリュスを一本手に入れてほしいと言った。
米国から持ち帰った案件を担当部署に預けた。それから数日は、個別の会議と、決算期前のグループ全体の会議を幾つもこなした。自分のオフィスにしてしまっている大都芸能に座ってばかりもいられず、他出も増えた。
その一つが、亜弓の説得だった。例の新規のフィットネス事業で、メインキャラクターに彼が推したマヤには逃げられている。残る候補の亜弓の確保に、担当者は話をしたというが、これも首を縦に振らないという。
口説くのに、時間を作って姫川の邸まで出向いた。こういう姿勢を、亜弓は案外評価してくれる女性だった。いつだって点は辛いが。
亜弓ともつき合いは長い。芝居の取り組みについて、彼はマヤを芸術家で、亜弓は妥協のない職人だと感じていた。そして、マヤがパン屋の憧れの看板娘のようであれば、亜弓は可愛げの少ない姪っ子のようだと思った。
「だって、マヤの次点でしょう？ わたし」
いきなりこれで、返事に詰まった。担当者はそれをもらしたのか。彼は隠さず、先日アメリカでこの事業の契約に、彼女が寄与してくれたため、その点でまず彼女を推したのだと告げた。
「マヤはどうせ、ＣＭが苦手で…、とか言って逃げたのでしょう？」
「その通りだよ、見ていたかのようだな」
「前から思っていましたけど、速水社長、マヤに弱いのですもの。わたしが同じことを言えば、別な方法で必ず説得したでしょう？ ふふ、昔恋した誰かにでも似ているのかと…」
ぐっと詰まったが、それは顔に出さなかった。これだから彼女は油断がならない。おそらく、自分のマヤへの思いの一端なりは、亜弓に透けているのだろう。苦笑して彼はそう思う。
「そんなことはない。君の方が適役だと思うから、すぐ引き下がった。彼女はとにかく時の女優だろう、使わない手はないというのが、社の方針でもある」
「まあ、いいですわ。社長自らいらしていただいて、断るのは、ママもいい顔しないし…」
しぶしぶといった体で、亜弓は仕事を受けてくれた。そして、前に渡されてあったらしい事業の概要を見て、意見があると言った。
「メインキャラクターの意見はありがたいよ。拝聴しよう」
「わたしもジムに通うから思うのですけど、クラブから疲れて帰った後で食事をするのは億劫で。中で済ませられたら都合がいいのに、と思っていました」
マヤはヘアメイクのコーナーが欲しいと言っていたな、と彼は思い出す。亜弓は食事を取るスペースが欲しいという。大事な女性ユーザーの意見で、彼は頷いて聞いた。
「参考にさせてもらうよ。例えばどんなメニューが？」
彼は亜弓の口から、女性好みの軽食の名が出ると思った。サンドイッチや軽いデリ風の惣菜などだ。
「うどんです」
凛とした輝くような微笑みを浮かべ、亜弓は言う。「釜揚げがあるといいのですけど、厨房施設が大変かしら？」
彼はちょっと絶句し、「担当者に伝えておくよ」と答えを避けた。
ともかく、亜弓の承諾は取った。彼はその例に、何か社から贈りたいと言った。
「あら、いいですわ。社長自ら説得して頂いたのですから、自負心は満たされました」
「そうはいかない、ワインはどうかな？ そうヘルペ…」
言いかけ、すんでのところで止めた。「ペトリュスはどうだ？ 君はワイン通だと、マヤが言っていたから」
「あら、嬉しいですわ。ではお言葉に甘えます。そう、「マヤ」がそんなことを…」
二度目の失言に、彼は苦笑した。対外的に、彼女のことをマヤなどと呼んだことはない。「北島君」、「北島マヤ」だ。
話が済めば、夕食をご一緒に、と勧める母親の歌子が現れたが、彼は約束があると断った。辞去し、車に乗り込んだ。這う這うの体だと、また苦笑する。腹は立たなかった。
そこから社に電話し、水城に連絡した。今から向かう先と、「ペトリュスをもう一本追加してほしい」それを伝えた。
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