天涯のバラ
3
 
 
 
「やあ、ちびちゃん。俺にだってパリはパリだぞ」
突然現れた彼に、彼女はぎょっとして目を見開いた。程なく、ちろっと舌を出した。頭を下げ、
「お久しぶりです、社長」
「…君はその格好で来たのか?」
彼女はけろりとして頷く。上下ジャージなのだ。大方稽古の途中か何かでここに来たのだろう。その変わらないあり様に、彼はおかしくなり嬉しくなった。彼女は既にハリウッドスターと言っていいが、それが、無名の役者の頃と同じ様子なのである。それが彼には痛快だった。
「ちょっとおいで。水城君、ちびちゃんにもコーヒーを入れてやって」
彼女を促し社長室へ入った。しばらくして、水城が彼にはコーヒーを、彼女にはミルクティ−運んできた。
彼女をソファに掛けさせ、自分もその前に座った。近況を聞き、今後のスケジュールを大まかに訊ねた。
化粧っけのない素顔で、彼女ははきはきと答える。次の誕生日で二十六になるが、作らない素顔はまだ十代でも通るだろう。
互いに適当に喋った。年月が経った今、こうしていれば、こだわりなく向き合えているように思えた。彼女が妙に突っかかることもなければ、彼も過剰にからかったりしない。
彼女を大人になったな、と感じるが、それは自分もそうなのだろう。
彼女を前にし、以前の自分を、感情のコントロールにも苦労する若さがあったと振り返る。
(年を食っただけかもな)
これまで、決意の固さと強さの反面、意地っ張りで強情な彼女の幼さを、可愛くもあり、彼はしばしば笑ってきたが、自身の過去はどうかと、初めて彼女に比べて振り返った。義父への対抗心と復讐心に膨れ上がった、生意気で小賢しいどうしようもない少年だったに違いない。
(俺の方が痛々しい子供だったな)
彼女の彼への振る舞いなど、はるかに他愛のないものだ。
彼は、彼女にこの後自分も出るから、ついでに送って行こうと言った。仕事を済ますつもりだったが、どうでもよくなっている。ワーカホリックはそのままだが、その意味が最近見つからず、時間つぶしにこなしているような気がしてならない。
実際、グループを見るようになって、芸能の仕事は他の者にかなり割り振った。手がすく時間も増えた。なのに、この場所にいることが多いのは、地の利がいいのと慣れだ。
こうして年を重ねていくばかりなのかと思えば、気も萎え、毎日がちょっと辛くなる。
「ごめんなさい、速水さん、あ、社長…」
「何だ? いいよ、速水さんで」
彼女は申し訳なさげに彼を見た。こんなところは昔と変わらない。つい笑みが出る。彼女は彼へのお土産を忘れたことを詫びた。
「一番お世話になっているのに…」
「お、自覚はあるのか、嬉しいな」
「じゃあ、何か今度ご馳走します。社長がお忙しくなかったら」
「ありがとう。今は俺もそれほど忙しくない。君の方がそうだろう、合わせるから、いつでもいいよ」
彼は自分の連絡先をテーブルのメモに記し、彼女へ渡した。彼女はそれを受け取りながら、ちょっと妙な顔をして彼を見た。若い女優のお愛想を本気にした彼に、戸惑っているのだろうか。
とっさにいつものかっこつけで、取り繕おうかと思った。「からかっただけだ」とか「冗談だ」とか。
しかし、止めた。そんな誤魔化しをしたところで、彼女と二人で食事に行きたい本音は変わらない。年を取った分、彼女に対し、あきらめた度胸もついた。戸惑っているのなら、その隙に乗じたい。旨いものを食わせて、喜んでもらい、その笑顔を見られれば、彼はそれでいいのだから。彼女にデメリットはないはずだ。
端から彼女に奢らせるつもりなどない。
しれっとしていると、彼女は自分のケイタイを出し、彼の番号へかけた。胸の中で短く着信音が鳴る。どうしてか、それがつきんと彼の胸に痛いほど響いた。馬鹿げた思いだが、何かのサインのように感じた。
ずっと前、顔を合わせれば喧嘩三昧だった彼女との仲を、彼の真意を知る水城が「いつまでも信号は赤ではない」と表現したことがあった。彼女に言葉ほどに嫌われてはいない、と彼に教えたかったのだろう。それがなぜか思い出された。
まるで彼女からの電話の着信音が、こんな遅れた今届く、許しのサインに思われたのだ。だからといって、彼女への信号を渡る、資格も気概も彼には既にない。
何もかも失してしまった頃に、好機は来るのかもしれない。その皮肉さとほろ苦さに、胸がまだ痛むのだ。
「じゃあ、わたしのも登録して置いて下さい。速水さん、知らない番号だって出ないの、なしですよ」
「社長」から、「速水」さんに戻った。それだけで、彼女との仲に風が通ったようになる。嬉しかった。たまに会う。そして二人の間にこの旧知の空気感があれば、それで御の字だ。
彼女はケイタイを操作し、彼の名を登録している。それを前からのぞき込んだ。「きゃっ」と言って、彼女が驚いて身を引いた。
「何ですか?」
「ゲジゲジとか入れてないだろうな」
「入れてません。「速水社長」でちゃんと入れました。そっちこそ、「ちびちゃん」は止めて下さいね」
「ちびちゃんじゃないか。天女様とでもしてほしいのか?」
「普通でいいんです、北島マヤでお願いします」
互いに登録名を見せ合い、何となく笑った。
「退屈なときは、かけて来てもいいぞ」
「速水さんも、二日酔いでシャキッとしたいときは、わたしにかけて来てもいいですよ。狼少女の遠吠えで目を覚まさせてあげます」




           


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