天涯のバラ
24
 
 
 
寿司を食べる約束で、彼女と待ち合わせた。相も変わらず、あのアイボリーのワンピースを着ている。もう春が間近い。
「それは冬物じゃないのか?」
「いえ、オールシーズンです。七分袖ですから」
宣言するように言うから、彼はもう反論もできない。古びた感じもしないし、清潔感もある。気に入って、手入れし大事に着ているのだろう。
食事のときだ。彼が向かいの彼女へ、
「ちびちゃん、着物をもらってくれないか?」
「へ」
彼は自分の亡き母の着物が、箪笥いっぱいあると言った。母が義父と籍を入れた際に、物を持たない母へ、義父が山のように作らせた品だ。品だけはいいはずで、彼女が見て好むものがあれば、ぜひ着てもらいたい。
「早くに亡くなって、袖を通してないものもあるだろう。古着を構わなかったら、君にあげよう」
「会長さんはお嫌ではないんですか? 奥さまの遺品を、わたしなんかが…」
「義父が言い出したことだよ」
事実そうだった。彼には存在すら思い出せなかった品々だが、義父にはあれで思い入れがあるようだ。マヤにとは言わなかったが、「お前の思う女にやったらどうか? 家内も喜ぶだろう」などと優しいことをもらした。雨が降るぞと思ったら、その通りで、次の日から大雨になった。
「なら、喜んでいただきます」
「ありがとう、義父も嬉しがる。いつでもいいから、見においで。邸の者に言っておくよ」
「はい」
食事を済ませば、いつものように飲み直しに彼の部屋に向かう。慣れたもので、もう彼女が着替えを用意している。彼女が欲しがるケーキを買うのも、毎度のことだ。
春が近いと言っても、まだまだ夜は冷える。ヒーターを強めてから、ワインの栓を開けた。ソファに彼が掛け、その足元の床に彼女が座った。少し離れた位置の壁のテレビは、彼ももらった彼女が出演した米アーティストのPVが、音を絞って流れている。それを見るともなしに見ながら、
「精子あさりはどうなった?」
「速水さん、この曲、すごくロマンチックななんですよ」
渋い声だ。確か、このアーティストは彼女の贔屓だった。彼は言い直す。「すまない。精子の研究はかどっているか?」
彼女は注がれたワインをぐびっと飲み、グラスを突き出した。注げというサインだ。彼はにやにや笑いながら注いでやる。
彼女は注がれたワインをちょっと舐め、費用を払い会員になった精子バンク『ミラクル・ラボ』からは、精子データーが届いていると言う。
「何だ、それは」
単純な興味で、彼はその話に食いついた。月に十人のペースで、会誌に精子を提供した男性のプロフィールが載せられているという。精子の運動率や奇形率といった詳細なデーターから、提供した男性の人となりまでが、実名付きで掲載されるというから、彼には信じ難い。
毎月来るそれを、彼女は眠る前、ベッドで眺めているというから、更に衝撃的だ。
「一位が警官のトッドで、次がヘンリーで迷っています。ヘンリーはカウボーイなの、すごいでしょ」
彼は返事に窮した。警官は何となくわかるが、カウボーイの遺伝子を彼女がなぜほしいのかわからない。
テレビ画面のPVは終わった。
「なあ、ちびちゃん。まともに恋愛をしようという気持ちはないのか?」
「だったら、誰が、北島マヤの相手をしてくれるんです?」
俺が誰か紹介しよう、とは死んでも言いたくない。それなら、まだ精子バンクで子供を作ってくれた方がましだが、それも辛い。
彼女は一つ目のケーキを勢いよく平らげ、唇のクリームをぺろりと舐めとってから、
「経験がなく言っているんじゃないんですよ、わたしも」
「え」
「ちゃんと普通の人と恋愛して、失恋した経験もあるんです」
「誰と?」
「速水さん、きっと知らない」
その返しに、「普通の人」と言いながら、業界人であることがうかがえた。知らず目が尖った。
「速水さん、…何もしない?」
「俺は極道者じゃない、何もしないから、とにかく相手を言ってくれ」
彼女はお笑い芸人だと言い、その名を告げた。大都芸能には芸人の所属はなく、彼には疎い。しかし、名前でピンと来ないのであれば、あまり売れていない人物なのは確かだ。
「本当に意地悪なことしない? 頑張ってる人だから、邪魔しないであげて」
元カレをかばう彼女の声が、一々うるさい。しかし、そう言うのは、彼女の目に彼の様子がひどく怒っているように見えるからだろう。
失恋と、彼女が言うからには、振ったのは男の方なのだ。それも頭に来る。
「どこかで会ったら、睨んでやって、共演者に大都の所属がいたら引き上げるくらいだ。心配するな」
「本当に止めて下さいね」
「わかったよ。でも、睨むくらいはいいだろ?」
「自覚あります? 速水さんが睨むとすごく怖いんですよ。本職みたいに…」
「誰がやくざだ」
煙草を吸い、気持ちを抑え、いつの頃なのかを訊いた。彼女はつき合っていたのは去年で、それもごく短く、三か月ほどで終わっという。意外だった。
彼が理由を訊く前に彼女が、
「結局、つり合わないのが理由だって言われました。ぱっとしない(彼が言いました)芸人に、北島マヤはおかしいんだそうです。単独ライブをするときは、そんなことおくびにも出さなかったのに…」
「単独ライブ?」
彼女は、その芸人が単独でライブを開く際の資金を持ったと言った。幾ら? と問えば、二百万、と返る。
「単独ライブの資金を頼まれて渡した後で、わたしはアメリカでドラマがあるし…。帰ってその後彼のライブに行けば、スポンサー面かと怒られて…、上手くいかなくなりました。役者じゃない人に魅かれたのは初めてだけれど、芸人も一緒なんですね。表現に真剣な人はみんな同じ。一生懸命なところが好きだったけど、合わないみたいです…。自分と似ているからかも」
それ以来、頑張って恋愛をしようとは思えなくなったという。
「物珍しく近づいて来て、利用されて。挙句に「北島マヤとはつり合わない」なんて逃げられるの、もう嫌なんです」
そんな自分が子供を持つには、『精子バンク』ほどふさわしいものはない…。
「でしょ?」
返事ができなかった。




           


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