天涯のバラ
5
 
 
 
彼は興味深く、聞き約に徹する。あるとき、ドラマの娼婦役をもらったという。小さな役だがせりふもあり、物語の要素にもなる役柄だった。彼女は一生懸命、その役に没頭した。しかし、
「わたし、娼婦を知らないんです。その気持ちもわからない。なりきることなんて、できなかった。実際、試してみる訳にもいかなくて」
「そりゃそうだ」
すかさずの彼の相槌に、彼女は笑った。まさかとは思うが、役作りのため、無茶な橋を渡ったのではないかと、はらはらするのだ。
「そんな役は、どんどん来るでしょ? やってもみたいし。いつでも体験して、そこからつかむのも、無理なんですよね。でも、ふっと気づいて…」
娼婦の自分であることを許したのだという。そうなる可能性を、受け入れたのだと言った。彼はつい眉を寄せた。意味が取り辛い。
「経験するのではないけれど、娼婦になる自分を、いいか、と許すんです。そうしたら、不思議と理解が深まってきました。よく、黒沼先生が、想像力を〜とか言っていたけれど、わたし、よくわかっていなかった。でも、役を受け入れることで、想像もできるようになった」
彼女は、幾度も経験した『紅天女』の公演も、そういうアプローチをしているとつないだ。
彼は相槌も忘れて、彼女の話を反芻している。何となく、自分に置き換えてみるのだ。たとえば、自身のまずい結婚生活を、役柄だとする。そして、その中で生きざるを得ない自分を許す…。もしくは、その大きな原因となる紫織の存在すらも、許す…。
(あり得ない)
彼にとって、彼女の役作りの手段は神業だ。本来が優しく人を憎み難い、彼女の稀有な気質だからこそ叶うのだろう。まあ、役と実生活は違うが。役であると認めることすらも、彼には嫌悪感がある。
少し思いが遠のいていた彼に、彼女は詫びた。
「面白くないですよね、こんな話は」
「いや、そんなことないよ。天才女優の演技への取り組みは、興味深いよ、本当に」
ずっと昔から、彼女がする演技に関する話は、彼をつい引き込んできたのだ。
「あの、速水さん」
そこで彼女が、不意に彼を見た。彼はちょうど、ユリ根のフリットを口に入れたところだった。少し口を開いたまま、彼女を見返した。
「お礼が遅れて、ごめんなさい。長い間、紫のバラを送って下さって、どうもありがとうございました。ずっとお礼を言いたかったのだけど、機会を見つけられなくて。今回、大きな賞をもらって、節目だから」
彼は驚きに、声も出なかった。口の中に、まだフリットが入っている。ゆっくり咀嚼しながら、彼女を見た。
(知っていたのか…)
既に時も経った。ごまかす理由もない。
彼はフリットを喉にやってから、気づいた訳を訊ねた。彼女はそれに、『忘れられた荒野』という舞台劇に出たときのことだと、ちょっとしたエピソードを告げた。
(そんな昔から…)
彼はあきれる思いで彼女を見た。彼女ではなく、自分が愚かしかったのだ。何も知らないと決めつけ、彼女に良かれとあれこれ傲岸に接してきた。何も知らないのは、自分の方だったのに。
あの頃の自分はしがらみに取り巻かれ、なのに断てない彼女への思いとで、息が詰まる思いでいた。確かに、彼女が打ち明ける「機会が見つけられなくて」当然の状況だった。よくもまあ、知らぬふりでやり過ごしてくれていたと思う。
自分が気づかないだけで、彼女はしっかり周囲を判断し、こちらを思いやってきた。とうにあの頃から大人びていたのだろう。子供扱いしていたのは、彼女が子供でいたら、彼が楽だっただけのことだ。
思いにつれ、当時の悩ましい彼女への思いが去来した。終った恋ではない。しかしそれは、成長した彼女を前にし、ほろ苦い思い出に色を変えるのだ。ふと、今自分が向き合わなければならないのは、この彼女だと感じた。
あの頃の彼女ではなく。記憶の中の彼に都合のいい彼女でもなく。
そして、そうすべきは、過去の自分でもないのだ。
「母さんのせいですか? よくしてくれたのは」
彼女はワイングラスの脚をいじりながら問う。彼はそれに、「それもあった」と偽らない気持ちを述べる。彼女の母を死に追いやった自覚は今も強い。そして彼女から母親を奪った償いも、あのバラには込められていた。
何とか自分が、彼女を『紅天女』まで導いてやろうと思った。それは紛れもない贖罪でもある。
彼女は首を振った。「母さんのことは、速水さんだけのせいじゃないです。速水さんが悪くなかったとは言わないけれど、わたしも、ずっと親不孝をしていたから」
その言葉は、彼女の中で母の死についても、彼の罪についても、整理済みであることを示すようだった。
「でも、手を下したのは俺だぞ」
彼女はちょっと笑った。ワインを少し飲み、
「じゃあ、ずっと気にしていて下さい。それで速水さんの気が済むなら。あなたの気持ちまでどうにもできないし。お好きにどうぞ」
突き放す素振りで彼の心を解放させる、背伸びした風もないのに大人びていた。その言い回しに、彼は舌を巻く思いだ。会わない五年に、彼女は様々な意味ある経験を積んだのだろう。その充実が、如実に現れている。
素直に、ありがとうと礼を言った。気が楽になると。




           


パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪


ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪