天涯のバラ
8
 
 
 
せっかく大きな足掛かりを作ったのだ。きっと彼女は今後の活動の拠点をアメリカに置くことになるだろう。あちらで好きな家を買うこともあるだろうし、のちパートナーとなる異性との将来も豊かに描けるのだ。
軽くなく胸を痛ませながら、そういうことを説いた。善意はいいが、上演権の恒久的な折半は、法外だと思えた。
「欲しいものもないし」
彼女のつぶやきに、彼は落ちた目を上げた。服でも買えばいいのに、と思う。彼と会う際には、彼女は高確率で、同じ白いワンピースを着ている。ストールを巻いたり、ファーの襟巻をしたり、足元を変えたりと工夫はしているが、所詮は同じ服だ。
彼に会うのに、女性らしくお洒落をするつもりもないのかと、少し残念な気もしていた。
つい声が出た。
「服とか、あるだろ? 女の子の欲しいものが。たまには違う服を着た君も見てみたい」
彼女はぽっと頬を赤らめた。少し彼を睨み、
「同じ服ばっかり着て、と思ってるんでしょ、速水さん」
「そうは言ってないぞ」
「荷物を増やすのが嫌なんです。だから、要らない服は買わないんです」
出来るだけ身軽でいたいのだという。気が向けば、いつでも海外へふらりと行ってしまう心づもりが、その言葉ににじみ出ていた。
やはり彼は面白くなく、ふうんとそっけない相槌を打った。
「自分だって、いつも同じの着ているくせに」
そうではなかったが、彼女の目には、彼の着るダークスーツなど、どれも同じに見えるのだろう。
その夜は、彼女のリクエストでおでんを食べた。水城に聞いた評判の店は混んでいたが、カップル客が多いためか、カウンターに座り、何気なくしていれば案外気づかれない。
彼女は玉子を割って口に入れ、熱そうに咀嚼する。可愛い仕草を見ながら、彼は頬杖をついた。
「恋人ができれば、身に構う張りが出るんじゃないか?」
彼女に決まった男性の影がないことは、既に確認していた。知ったところで彼に何ができる訳でもないが、誰もいないとわかれば、それだけでほっとする。自分に、許す許さないを言う資格もない。わかっていながら、そんな思いはどうしようもなかった。
「いませんね」
冷酒を飲み、彼女は答えた。
「あの俳優は? 向こうの映画で共演した」
映画が話題になった頃、二人の仲が日本でも噂されたことがあった。
彼女は首を振る。
「まさか。あんなスターと」
「君だって似たようなもんだろう」
「違いますよ、全然」
「スターはガードが堅いだろうが、怖いものなしの豆台風のちびちゃんなら、いけるだろう」
「速水さんまで、何でステューとくっつけたがるんですか? 映画の影響?」
「そうかもな。似合ってたぞ、でこぼこコンビが。嫌なやつなのか?」
「いい人ですよ、ちょっとぶっきらぼうだけど。最初は口もきいてもらえなかったな…」
彼女は少し話の向きを変えた。彼女が出会った、スターと言われる人には、とても排他的な人物が多かったという。
「大抵下積みが長いから、名が売れてから現れた人には冷たいですね。上辺は愛想よくしていても、内側になかなか入れない…。そんな人が目立った気がします。これはわたしの観察だけど」
「わかる気がするな。利用目的で近づいてくるようにしか見えないんだろう」
「うん」
だから、と彼女は玉子の残りを口に入れ、噛みながら彼を見た。「急にやって来た人って、怖くって…。だから、当分そういう人は作りません」
その視線に、声に。彼は心の奥を射貫かれたように思った。容易に相槌も打てず、彼女をただ見返した。彼女には何てことのない、当たり前の仕草なのに。
「欲しいもの、ないんですよね」
彼女は繰り返す。ちょっと嘆息じみていて、気にかかった。夢を叶えた大女優だ。若さもチャーミングな愛らしさもある。前途洋洋たる彼女が、「欲しいものがない」という理由がわからない。服が要らなければ、アクセサリー類。違ったところで、マンションや車…。ペットを飼う趣味を持つ女の子も多い。より取り見取りだ。
「君は元々、欲がない子だったからな」
彼女は首を振る、「ありましたよ。いっぱい」
いつにない頑なな言い方が引っかかった。どうしたのだろう、と彼は彼女の顔をのぞいた。
「『紅天女』からです、全部…」
「え」
横目で彼を見、すぐに目を戻す。
「『紅天女』って、わたしにはお芝居じゃなく、自分を殺す儀式だったみたい。阿古夜は女神でしょ、全身でそんな阿古夜を受け入れるのに、自分は要らなかったんです」
「おい、自分を殺すって」
「わたしはそうやって、阿古夜になったんです。きっと自分と引き換えに」
彼は思わず、彼女の手を取った。非常な告白は、彼を戸惑わせた。役を感じ取る手段を彼女なりの表現で言ったまでだとは、理解できる。
(しかし、自分を殺すとは…)
この小さな彼女が、今よりまだ若い頃に、どんな思いであの『紅天女』に賭けたのかと思えば、痛々しい。息がつまる気がした。競い合った二人の女優の、一人が視力の一部を犠牲にし、そしてまた一人も「自分と引き換えに」したと告げる。
荘厳で華やかなあの芝居の裏側にある、秘めた怖さに彼はふと気づいたように思う。彼女と亜弓とが仲がいいのも頷けた。阿古夜という修羅場を体当たりにくぐった、たった二人きりの女優なのだから。
「…そうやって、『紅天女』を継いだんです」
黙って、取ったままでいた彼女の手を握った。「わかった」という相槌の気持ちだった。大きな感動を産む舞台だ。主演する彼女に、それなりの厳しい覚悟があったのは間違いない。
「でも、目指した舞台を踏んだ君が、それで自分を殺してしまったと言ったら、応援してきた俺はどうしたらいい?」
「あ…」
「何もかも捨てる気持ちで挑んだのだろう? 君を見ていてわかったよ」
彼女はそこで、切り替えたように笑顔になった。ゆるりと彼の手を解いた。「変なこと言って、ごめんなさい」と詫びた。
「ちょっと特別なんです、わたしにとって『紅天女』は。あそこから、全部変わったから…。でも、捨てたんじゃないですよ。大事なものは覚えています」
色んな思い出も、紫のバラも…。彼女はつぶやくように言う。手放したのかな、と彼に笑いかけた。
「何もかも手放したら、空っぽになった気がして。すごく楽になったけど、それきり欲しいものが見つからないんです。食べて眠れたらそれでいい。でも、お芝居への情熱はあるから、大丈夫ですよ、それで生きています。へへ」
「悲しいことを言うなよ、若い娘が」
「どうして? 物欲まみれの方がいいですか?」
「君くらいの年の頃は、それがまだ健康的だろう」
「あはは。『紅天女』で煩悩を断つワークって、いいかも。速水さんみたいな利益を追求する人にもお薦めします」
「何度観ても煩悩は消えないぞ」
「観るだけじゃダメです。演じないと」
「一真をやる桜小路は、俗っけ満々じゃないか」
そこで彼女はふき出した。
「なあ、本当に欲しいものはないのか? 久しぶりに、俺に贈らせてくれ」
彼の言葉に彼女はちょっと迷う風を見せた。しばらく置いて、「実は…」と切り出す。
「考えていることがあるんです。もう少し自分の中でまとまったら、聞いてもらっていいですか?」
彼は冷めた大根を口に入れた。頷いて応じたが、
「別の事務所に移籍したいとか、個人事務所を立ち上げたいとかいうこと以外なら、何でも相談に乗るよ」
「速水さん、わたしが他所に行ったら、困ります?」
「困るよ。大損害だし、何より嫌だ。俺は紫のバラの人だぞ。君に構う楽しみを奪わないでくれ。どうなんだ? そういった種のことか?」
彼女は首を振る。全然違うと言った。ごく個人的なことだ、と。
突っ込んで訊いても、口を割らない。彼女の中でまだ形になっていないのだろう。代わりに、もう少し飲みたいから、つき合ってくれという。
「いいよ」
「ねえ、源造さんの兄さんのお店に行きましょう」
「嫌だ」




           


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