Daddy Long Legs
4
 
 
 
彼女を離し、ケイタイに出た。立ち上がり背を向けた。マヤの視線が気になるが、どうしても出なくてならない。自分が今、易々と電話に出られる状態であることを、あの人には絶対に知らせないといけない。
「どうかしました?」
『…いえ、別に、お帰りになった頃かと思って』
おやすみなさいを言いたかったのだと、いった。
『どちらに? どこか外ですの?』
「社にいますよ。うるさいでしょう。部屋ではなく別の部署に出向いているんです」
『ああ、そうでしたの。ごめんなさい、お邪魔をして…』
意味のない通話は、あの人から打ち切った。こんな電話は初めてだった。彼がどこにいるのかを探るようなものだ。知っているのだ。彼女が今夜どんな目に遭っているのかを。そして、その側に彼がいないかを確かめているのだ。
彼女は言った。「ケイタイがぼろぼろに壊されちゃった」と。そんなことをして意味があるのはあの人しかいない。そうすることで、彼とのつながりを一時にせよ断てた気でいるのか。
髪を切り刻み、頬や頭を殴り、レイプまがいなことまで仕掛けた…。目障りな女の頬を張るのに、自ら出向くでもなく、安全な場所にいながら、他人の手で彼女を惨めに汚させようとした。
(なんて…)
言いしれない嫌悪と怒りがこみ上げる。白くなよやかなあの人の姿が、ひと時巨大な回虫のそれに重なった。
「速水さん…」
彼女の声に意識を戻す。軽く頭を振ってから「悪かった」と詫びた。ケイタイをポケットに戻した。
「怒ってる? また迷惑かけて…」
上目で彼をうかがうように見る。どうして、と思う。こんなに傷つきながら、彼が不快ではないかが気にかかるのだ。もう一度抱きしめた。
たとえば、彼女はあの人と同じ立場に立ったとして、同じ手段は取らない。彼女の母親の死に、彼は今も責任を感じているが、あの悲劇にも彼女は彼に報復めいた真似はしなかった。そんな発想もないに違いない。他、亜弓であったり、劇団のメンバーなど彼女に連なる大勢が同じだろう。憎しみの、別な穏当な形での発散を求める。そして、多くの人がそうだ。
だが、いるのだ。
一線を越えてしまえる人間はいる。やられたことを、受けた感情の分も込め、相手のダメージを量り、より手ひどいやり方で報復する。おしとやかな皮の下で、あの人がそうなのだと思い知る。そして、自分もそっち側の人間だと、ちらりと思った。
額と頬に唇を当てた。
「俺のせいだ、君がこんな目に遭ったのは」
「え?」
そのとき、マネージャーが現れた。控え目に声をかける。腕を解き、振り返った。
「先生が、異常がなければ今夜は帰宅してもいいと」
堀口は先に医師から何かを託ったらしい、手に薬袋も持っている。ベッドの下からつばの大きな帽子と衣服を取り出した。それを彼女に手渡す。顔と髪を隠すため、来るときもそれをかぶらせたのに違いない。帽子の中の部分に血痕があった。
「大丈夫? マヤちゃん」
「あ、はい。平気です」
彼はマネージャーに、彼女を送って行くよう頼んだ。堀口は易く頷いた。玄関まで必ず、と固く約束する。
「じゃあ、タクシーを呼んできます。出口で待っていますから」
彼女はマネージャーが去り、カーテンに手をかけた。着替えると言う。なら外で待つよ、と外へ出ようととした。
「嫌、行かないで。待って下さい。すぐ済むから」
止められて振り返れば、彼女は彼の目の前で、着せられた視察時の物を素早く脱いだ。目を逸らす間もなく、彼の前に彼女の乳房が露わになる。部屋の入り口には扉がない。彼は外から隠すように、彼女の前に背を向けて立った。
乳房の上にも貼られたガーゼがあった。その場所も傷を負ったのだ。
「いいです」。声がして、彼女がベッドから降りた。ワンピースを着て、堀口から渡された、帽子をかぶっている。それはストローハットで、冬の今おかしな代物だ。それしかなく、とにかく使ったのだろうが、そんなとこも痛々しく可哀そうだった。
彼女の肩を抱き、出口へ伴った。ふと、彼を見上げ、
「速水さん、帰っちゃうの?」
そのか細い声が、耳に痛い。ついてやりたかった。今晩ぐらい不安な彼女を抱きしめて、せめて眠るまで見てやりたい。彼女の泣き過ぎた瞳を見て更に強く思う。自分に身体をさらした、さっきの彼女の振る舞いも思い出された。誘惑は断ち難く、息をつめてそんな思いをやり過ごした。
今行動を慎まなければ、これまで一体何を耐えてきたのか、わからなくなる。彼女と共にいるところを、記者でもあの人の使った人間にでも撮られでもしたら、すべてがパアだ。今ここにいることも十分に危ういのに。
「青木君に連絡した。今夜は一緒にいてくれるよ」
「麗が…」
「また連絡する。今夜はよく休みなさい」
「でも、ケイタイ壊れちゃった…」
彼女はもう泣き出している。その涙に胸が衝かれた。どうにか、何かしてやりたい。「また渡すから、それを使えばいい」
「もらったメールもみんな、消えちゃった」
そうして子供のように帽子の陰で泣きじゃくる。彼はそれに、何かないかとポケットを探った。財布と名刺入れと、煙草にライター…。彼女の喜びそうなものなど、何もない。別のポケットには車のキーがある。
夜間外来の出入り口は、通常のロビーに接していた。患者の家族らしいのが、長椅子に仮眠を取っているのがちらほら見えるばかりだ。ひと気が少ないのを見、彼はキーを彼女に差し出した。取り立て意味などない。何かやりたかっただけだ。
「ほら、これで我慢できないか? 俺の車だ。これをやる」
「え?」
「俺はタクシーで帰るから、堀口に運転してもらえ。やる」
さすがに彼女も涙が止まったようだ。ぬれた頬を手の甲でこすりながら、
「速水さんの、あの車? 黒い…」
「そう。乗ったことあるだろ? 前に」
「…要らない、あんなやくざみたいなの。乗ったらやくざになっちゃう」
訳のわからないことを言うから、彼もあきれた。「なるか、やくざに」とこぼしつつも、そう的外れでもない来し方をちょっと思った。
こんなことを口走るのは、自分を置いて行く彼への、わがままの少ない彼女なりの鬱憤なのかもしれない。
とにかく、他に何もない。少しだけ意地になった。
「やる」
「要らない、絶対! やくざのなんか」
「やくざの訳があるか!」
「ちょっと似てるもん」
「似てない」
「速水さん、鏡見ないでしょ」
「だったら乗って、やくざになってみろ」
出入り口を出てすぐで、堀口がタクシーを待たせ立っていた。彼らのやり取りが聞こえたようで、ぎょっとした顔でこちらを見ている。
とにかく彼女をタクシーに押し込み、堀口には後で連絡してくれと言った。車が走り出し、その姿が見えなくなるまで見送る。
彼女に突き返された「やくざみたいな」車に乗って、このまま帰ろうと思った。一人になって、考えたいことがある。
 
マンションに帰り、ほどなく堀口から連絡があった。部屋に着いたという。『マヤちゃんに代わりましょうか?』と言うのへ、「おやすみ」とだけ伝えてもらった。
くさくさと気が滅入った。
上着を取り、ネクタイを外す。生のまま酒をグラスに注いで飲んだ。喉が心地よく焼けた感覚に、ようやく人心地がつく。
脚を投げ出して座り、運転中は意識して気を逸らしていた問題を、ようやく考え出す。まず、紫織はどうやって彼女の住まいを知ることができたのか。
たとえあの人がどこの令嬢であっても、大都芸能に所属した役者の住所は手に入れられない。社内の誰かが売ったか? ごく薄い可能性だが、ゼロではない。しかし、そのつてを限られた期間に、あのお嬢様が見つけることはきっと不可能だ。
そうなると、彼女の帰宅時までをつけたということになる。どこから? 撮影現場や稽古場…。他に共演者やスタッフが詰める。その場を知るのは、そう難しいことではないだろう。あの人にはテレビ局社長の父の強力なコネがある。その部下からどうとでも聞き出せるに違いない。
次いで、誰がやったのか。
彼女の怪我の具合は、医師が異常を感じ、警察に通報している。感情を差し引いても見ても、素人目にも、ひどいものだった。犯人が逮捕されれば、実刑は免れないはず。そんな罪を犯してくれる男を、あの人はどこで調達できたのか。こればかりは、父親のコネという訳にはいかない。
知る限り、紫織の交友関係を頭でさらってみた。家族に親族に、習い事の関係者…。上品な顔ぶればかりで、すぐに消していく。そこで一つ気づく。使用人が残っている、と。その中の誰かではないか…。とにかく、街を歩いて拾ってこられるような種の人間ではないのだ。
豪奢で狭い世界に住むあの人が、飛躍した暗い行動を託すのなら、身近で言いなりになる人間を選びそうな気がする。その幼稚さもわからずに…。
事実からはそう遠くない確信はあるが、情報が少な過ぎる。そこでそれらの思考を置いた。
ややぼんやりして、酒を飲んだ。水でも飲むように、喉にやる自分に気づき、彼は立ち上がった。アルコールに強い質だが、明日に残し、悪酔いするのも避けたい。冷蔵庫から水と氷をと取って来て、それらで割って飲む。
酔いが上るにつれ、今夜の彼女のことが思い出された。無残に切られた髪と涙でぬれたままの瞳。頬や腕の傷や痣…。抱いた腕の感触が、生々しくよみがえった。そういえば、あんなに口づけたのは初めてだったと、こんな今気づく。
強引に唇を割る自分を、彼女はただ受け入れてくれた。そして、あっさりと胸までさらして見せた。意図などなかっただろう、単に急いだだけだとわかってはいる。平気で流した彼女に比べ、自分ばかりが気持ちを騒がせてしまっている。
彼女のキャリアに濡れ場はないはずで、それでも擬似的なものは演じているのかもしれない。それともまさか、実生活で彼の知らない誰かとそんな風な経験でもあるのか…。
もやもや馬鹿げた思いが頭を占めた。おかしいと思う。どうかしていると思う。細い身体の、ふっくらとしたあの乳房が忘れられず、それに触れられないことに、どうしても焦れているのだ。
「ちびちゃん」などと子供扱いしてからかいながら、その実、こんなにも彼女に欲情している自分の、形ばかりの見栄やかっこつけを嗤った。
(抱きたいんだ、君を。何度も何度も思ってきた…)
叶えられない情欲は、切なく、長く弄ぶように彼を苛んだ。もっと酔うことで、それをやり過ごそうとした。
どれほどか後、着替えもせずにソファに長くなり、目を閉じていた。このまま眠ってしまいたい、とそれを自分に許した。
眠りに落ちながら、醒めた頭のどこかが言うのが聞こえた。会いに行こう、と。なるべく早くがいい。計画とは違うが、事情が変わった。
自分は、あの人の母親に会いに行かなくてはいけない。




           

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