Daddy Long Legs
5
 
 
 
それは、彼女が襲われて二日後になった。日曜日で、出社したが午前で切り上げた。この日は、いつものスーツを着ていない。この後、食事をしてから、鷹宮家に向かうことになっている。
ニットにパンツで、ショートのトレンチを持った。階下では出ている社員と何人も行き交ったが、彼とは気づかない者もある。挨拶もしない普段着の彼らの前を、知らん顔で通り過ぎるのは、ちょっとだけ痛快だった。
社の外のカフェで、新聞を読みながらコーヒーとサンドイッチを食べた。紙面の最後に、彼女の記事がなかったのを確認した。時間を見て、余裕があるので思いつく。少し歩き、ある宝飾店で彼女へネックレスを買った。何か贈りたいと考えていたのだ。彼の名で、彼女に何かを贈るのは初めだった。
マネージャーからの報告で警察の聴取が済んだことや、その刑事がもらした内容では、彼女の爪の付着物から、犯人の血液型も絞られているらしい。恨みを買う心当たりがないかを何度も質問されたという。わからない、と彼女は泣いていた、と。
本当にわからないのだろうか。あの晩、彼は襲われたのは「俺のせいだ」と告げている。それがどういう意味か、彼女は本当に気づいていないのだろうか。彼がそう言う理由が、あの人にあることを。思いつきもしないかもしれない。そんな鈍感さは、あきれるほどふんわりとした彼女の愛すべき気質だった。
管轄の署の副署長は彼の大学の同期だ。知らない仲ではない。捜査の進捗を訊こうかと迷い、まだ早いと、止めておく。
社に車を取りに戻った。助手席に買ったネックレスの紙袋を置いた。ちらりと後部座席を見る。そこにB4サイズの封筒に入ったファイルが放ってある。
煙草を口にくわえ、火を点けてからエンジンをかけた。
鷹宮家には約束の時間前に着いた。案内され、客間で待った。紅茶が振る舞われるが、そのままに五分ほども待った。ドアが開いて現れたのは、紫織の母だ。いつもの和装で、歩を進めながら「お待たせしました」と軽く頭を下げる。彼は立ち上がり、礼を返した。
「お時間を頂戴しまして、ありがとうございます」
夫人は彼の服装に、あ、という顔をしたが、すぐに消す。彼は鷹宮家を訪れるときは、これまで常にスーツだった。仕事帰りのためというのもあったが、礼装の意味が大きい。紫織と二人の時ですら、ジャケットのない日はなかった。
比べて今日は、砕け過ぎた格好になる。普段着としてお召しを着る夫人の前では殊更、である。彼を見て表情を変えたのは、無礼な、と感じたのかもしれない。敢えてそのため、こんな格好をしてきた。夫人に対して負の感情はないが、相手の方で彼を嫌っているのは、とうの前に気づいていた。
「今日は、紫織とどちらへ? 外をたくさん歩かれるのかしら? 曇って何だか雪でも降りそうですが…」
皮肉めいたことを言う。それに彼は笑顔で返した。「いいえ。紫織さんとはどこにも。お花のお稽古と、先ほど家政婦さんに聞きました」。
ぽんと傍らの封筒に手を置き、「新居のプランができたので、お目に掛けたいのです。先にお母様にも目を通していただきたいと思いまして、お時間を頂戴しました」
「わたしの意見など…。あなたがどうぞと言ったもので、あの子が嫌がったことがありますか」
嫌味を言いながらも、彼が設計図を広げれば、身を乗り出して見る。皮肉か本音かわからないが、「あら、狭いのね…」。とつぶやくから、内心で彼はあきれた。一体この辺りの坪単価が幾らになると思っているのか。この用意に、彼の二年分の株収入が飛んでいる。
「僕にできる精いっぱいの形です。当座はこれでお認めいただけないでしょうか? 追々お母様にもご納得いただけるものを考えています」
ふん、と夫人は仔細に図綿を眺め、
「でも、あなた、このスペースじゃ家政婦の三人がせいぜいでしょ、どうなさるの? 紫織の世話のばあやと、あなたのにと、家事を見させるのに二人はほしいし、あと料理人も必要なのに…」
「普段は、僕がいないのでこれで十分でしょう。ばあやさんと家政婦に、料理人がいればいいのでは?」
彼の言葉に夫人は怪訝な顔をする。「どういう意味?」
「結婚後、紫織さんはここに、僕は別で暮らし、今のところ週末のみ一緒に過ごそうと考えています。こちらは鷹宮会長や、お父様の社長にもご了承をいただいていますが」
寝耳に水で、夫人は意味がわからない様子で彼を見つめる。彼は、嘘は言っていない。
これまで幾度も、彼女の祖父や父と邸以外で会ってきた。人と会い、ゴルフを回り、酒の供を務めた。その際、彼の週刊誌をにぎわす醜聞に触れられたこともある。「謹厳に見えたが…。まあ、野暮は言わないでおこう。藪蛇になる」。お構いなしである。君も仲間か、といった感覚か。
そんな折に、夫人に告げた内容は話しておいた。「そう」と驚かれたが、紫織の自殺未遂や持病のことを思えば、もらってくれる婿に文句も言えないのだ。
鷹宮家の内情については、計画を練る際に詳細に調べた。紫織の祖父と父がそれぞれに女性を置く別宅を構えていることは、この家の公然の秘密である。紫織には腹違いの兄弟が幾人もあることも。
この名門出の夫人が、家のそれを厭い抜き、己の恥部としている気の毒な事情もつかんでいる。夫人の出自の高さは、彼の亡き母が知れば目をむくのではないか。
「鷹宮家の別宅の人々」には、彼が計画の駒に利用した人物もある。人を介した報告では、既にこの邸に現れ、ひと悶着あったという。それに、夫人がどれほど動揺したかは想像に難くない。
この人を揺さぶるために、彼は幾つも手を打ったが、自身が登場する予定はなかった。あくまで無関係に、蚊帳の外でありたいのだ。しかし、予定外にこんな対面を持ったのは、紫織がしでかした、マヤの事件のせいである。
今のタイミングであれば、この母子共々に強く揺さぶりをかけることができるのではないかと思ったのだ。
その気位の高い夫人が声を荒げた。
「そんな、夫婦が、新婚から別居なんて! どんな噂が立つか知れたものではありませんよ」
「紫織さんは長く投薬もあり、それが済むまでは子供も見込めないとか…。僕もそれは了承しています。なら、これくらいの距離感がいいのでは。互いに自由で気楽です」
「あなた、何を言っているのかおわかり? 紫織がそんなことを聞いたらどう思うか…。義父と夫の名を出せば、すべて通ると勘違いなさっていない?」
夫人は唇を引き結び、肩を引く。彼を鋭く睨みすえた。高い誇りに加え、娘に己の二の舞はさせまいとの母親の執念が立ち上るようだ。このとき彼に並みの慎みがあれば、威厳のあるたたずまいに恐縮し、俯くなどしその視線を避けただろう。しかし、それをしなかった。まっすぐに受け、笑みながら返した。
「覚えておいででしょう? 僕の醜聞は。ああいうことは、もう終わりではないということです。以前、お母様にはきつくお叱りを受けましたから、せいぜい身を律しますが、僕も男なので、その後の約束はできかねます。妻である女性には辛いことだと思うので、最初からの別居を考えました。そこのところはお母様にはよくおわかりかと…」
夫人がテーブルの設計図を払った。話は終わりと、
「わたしをお母様と呼ばないで。許しませんよ、あなたには。虫唾が走ります」
立ち上がった夫人は、そのまま部屋を出て行く。その背に彼は大き目の声で「紫織さんをついでに呼んで下さい、新居の話をしますから」
返しはなく、荒くドアを閉じる音が響いた。
随分と憎まれた、と当然の結果に彼は目を伏せた。しかし、彼を虫唾が走ると罵った夫人とその彼とが、実は婚約破棄において利害が一致することを知れば、どんな顔をするのだろう、と思った。
 
夫人が伝えたのかわからないが、その後十分も経った後で紫織が現れた。稽古着なのか、これも着物を着ていた。何かを聞いてきたのか、後ろ暗いことでもあるのか。彼を見て瞬時怯えた表情になった。
立ったままでいる紫織に座るように促した。そのとき、彼は落ちた設計図を拾ってテーブルに広げた。「あなたの意見を聞きたい」と言う。
「あの…、母は何て?」
普段にない、硬い声だった。夫人の荒げた声が聞こえたのかもしれない。
「ああ、随分ご機嫌を損じてしまいました。まだ初期のプランですが、お母様の目には手狭だそうですよ」。
促すが、紫織の目はテーブルに落ちず、彼の周囲をさまよっている。
「ねえ、見て下さい」
はっと図面に視線を向ける。見ているのかそうでないのか。図面について何の意見も口にせず、
「今日は、どうしていらしたのですか? …お約束にないでしょ」
「ええ、設計図が届いたのですぐにと思って。式まで一年を切って時間もないことだし。まずお母様のご意見をお聞きしたくて伺ったのです」
「…そう」
「参ったな、あなたにも不評ですか? どこを直したらいいのか、それだけでも教えて下さい。帰ってすぐに担当者と話しますから」
彼は紫織を見つめ続けた。心なしかその顔は青ざめ、顎の辺りは震え出している。それを見ながら、彼は内心舌打ちした。
この程度か、と思う。彼女を襲っておいて、彼の顔を見ただけで馬脚を現し震え出す。その幼稚な他愛なさに、気分が悪くなった。せめて彼への恨みでも罵りでもあればまだましで、太々しく居直る紫織を確認しに来たのに。
「はい、あの…」
「さあ、教えて下さい」
彼は紫織を見つめたまま、その手を取った。冷たいその手が彼の手のひらで硬くこわばる。更に指を絡めれば、別な手でそれを外した。立ち上がる。
「ごめんなさい。母を見てきますわ。少し取り乱しているようでしたから…」
「心配ですね。お加減がお悪いのかな?」
彼は紫織を見ながら、小首を傾げた。目を伏せて身を翻す背へ、その母にしたのと同じように大き目の声で、
「では、これで僕も失礼します」。
紫織が彼を玄関まで見送ることはなかった。

           

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