Daddy Long Legs
6
 
 
 
玄関から出て、車に乗る前に彼は庭の方へ歩いた。冷たい冬の雨が、少し降り出している。コートを着て、庭園を歩いた。広大なそこから、屋根を連ねた立派な母屋が望めた。それを刷毛で刷くようにさらりと眺めた。
長く貫いた恋をあきらめて決めた婚約だった。その際に、思いを断ち切る代償に、この鷹宮の家への野心をどこかで持ったのは事実だ。それで、心が埋まると思った。
少し過去の自分を思い、そんなことで彼女の代わりになると考えられた自分が不思議だった。
苔の生した岩々に、雨が落ちている。彼の髪もしっとりと湿気を含んできた。車寄せへと身を翻し、ふと松の枝の剪定を行う庭師の姿が目に入った。大ぶりなはさみを使いぱちんぱちんと、小気味よく枝を切っていく。
何となくその姿を目で追った。はしごを使い、彼の目には不安定に見える足場で、器用にはさみを使っている。まだ若く精悍で、がっしりとした身体をしていた。どれほど見ていたのか、その庭師が視線に振り返った。
彼と目が合い、警戒の色を見せる。そこで彼は視線を外した。あのはさみであれば、彼女の髪など、容易く切れたろう、そう思ったが、単なる想像で、それ以上は追わなかった。
踵を返し、もう一度母屋を見た。そこであの人の姿を見つけた。カーテンの影、立ちすくみこちらの様子を見ているかに思えた。距離があるのに、ふと視線が絡まった。それを先に断ち切ったのは紫織だった。カーテンを揺らし、消えてしまう。
母が精神を甘やかし、祖父と父が物量面で甘やかした。そうして周囲の言う「溺愛」が出来上がった。そんな温室の中で育ったような境遇は、彼には想像も淡い。義父の望む鋳型にはめられ、汲々と少年期を過ごした自分には、とても理解ができない。
あの人には、一つ二つを守るのに青色吐息の自分のようなちっぽけな男ではなく、スケールのでかい王族のような男が似合うのかもしれない。そんなことをちらりと思う。もしくは、何も持たない、自由で素のままの男か…。
 
 
鷹宮家から婚約解消の打診があったのは、彼が邸に出向いた日から十日後だった。
「申し訳ない」と詫びたのは、あの人の父だった。結果に、彼は少し呆けていた。何度も何度も試行錯誤した計画の完遂が、にわかに信じられないのだ。
その表情を相当のショックを取ったのか、「娘のわがままには、親として何と詫びていいかわからない。真澄君、君にはあんなにも紫織の面倒を見てもらったのに…」
あの人が、あれほどの彼への恋を翻意し、「彼でなければ、どこへでも嫁ぎます。彼だけは嫌です。そのわがままは許してほしい」と涙ながらに訴えるという。
父である。愛娘の嘆きに彼へ「何かあったのか?」と問うことは忘れない。
「頭を上げて下さい、何もなくてもこうなったのには、僕の方に非がある。紫織さんは純粋で潔癖な方です。僕の汚れた気質が、気味悪くどうしてもお嫌なのでしょう。残念ですが、紫織さんがそこまでおっしゃるのですから、婚約の解消をお受けいたします」
しれしれと言い、鎮痛な顔を崩さなかった。
婚約時は、既に家族だの将来の役員だの言い、親しげにつき合ってくれていたが、両者で婚約が解消されればドライなものだ。あちらからは誰も出て来ず、代理人を立てての交渉になった。
ここまで漕ぎつけるのも難事だったが、彼はここからが正念場であると思った。どう損害を出さずに鷹宮家との提携を撤退できるか。余人に任せられない。そればかりにかかりきりになった。
根っからの実業家で、無意味な損害を被るのはまっぴらだ。義父から叩き込まれた自分のそんな面を、このときばかりは彼は強く意識した。好悪は別として、既に自分の本性でもある、と自覚する。
弁護士や会計士も含め、連日協議を重ねた。ようやく解決策が見え、その頃彼は、用意したあの人との新居用の土地を売り払った。少しばかり出たマイナスに、ちょっと笑った。
そのマイナス分が、あの人との関係解消に支払ったものだと思えば、ひどく少な過ぎ、おかしいのだ。
秘書の水城が、彼がやり遂げてしまった婚約の解消に、「どんな魔法をお使いになったのです?」と目を丸くした。魔法などきれいなものではない。「インチキだよ」と返した。
彼が婚約破棄の余波の対応に忙しい頃、彼女の演じる『紅天女』が、ちょうど本公演を迎えている。大都所有の大劇場で三日のみの特別本公演と決められ、その騒ぎで、階下の広報が準備のため忙しい様子だった。
彼はそれにタッチしていない。全くの蚊帳の外で、本公演が決まったのすら、事後報告だった。それらの陣頭指揮を執ったのは、彼の義父の英介だった。鷹宮家との縁談が壊れ、その腹いせか彼への当てつけかで、社に乗り込んではやりたい放題だった。
公演の予算などは社長決裁が必要だが、大きなものを組ませ、「それはわしが」と自分の判をポン。持ち前の計算高さで、無料の福祉的なボックス席を特別に設けるのを決め、「よし、やれ」とポン。公演後には『紅天女』の写真集を出すと決め、それの予算も「わしが許す」と判をポン。また、同時に大都所有の施設に大々的に『紅天女』フェアを行うと決めたのも英介だ。それに主なキャストを呼びつける算段にも「北島マヤはわしに任せろ、他は早く押さえろ」とポン。
やり過ぎじゃないかと、おかしかったが、忙しいので助かった面もある。自分の興した大都芸能で『紅天女』の興行を行うことは、義父の長らくの悲願である。その昂ぶりなのかもしれない。
面倒なのは、よその部屋でやればいいものを、彼の社長室を使うのが目障りだった。例の鷹宮絡みの問題を弁護士と協議中にも、「おい」と呼びつけ、
「おお、わしがここに座ると、朱肉の減りも早いわ。お前は決済が鈍いのじゃないか。社長印もちっともくたびれてない。ちゃんとやっているのか」
もう嫌がらせでしかない。
弁護士が下がり、代わりに水城がコーヒーを淹れて現れた。
「ときにな、何で北島マヤは、あんな子ザルみたいな髪になったんだ? 『紅天女』は鬘で済むからいいが。今後の役にも障るだろう。おい、わしが引っ張ってきた女優の監督がなってないぞ」
水城が、彼へ意味ありげな視線を送る。この秘書ももちろんマヤの遭った災難を知っている。犯人が紫織だということも、彼は匂わせてある。ちょっと咳払いをして、彼がコーヒーを飲んだ。
「髪はまた伸びますよ」
「切る前に報告を受けろ、社長だろうが。わしの引っ張ってきた女優の監督を怠るな」
「お父さんは、僕に北島マヤのマネージメント一切に手を出すなとおっしゃっていたじゃないですか。「お前がちょっかい出すと、あの子が嫌がる」と」
「臨機応変という言葉を知らんのか」
彼への身勝手はいつものことで慣れているが、最近のうっとうしさは度を越している。ちょっと驚かしてやれ、と悪戯心が出た。「紫織さんですよ、襲ってあの子の髪を切らせたのは」。
「嘘だろう」
「こんな嘘は言いませんよ。庭師らしいです、鷹宮の家の。その男に彼女が頼んでやらせたとか。警察から聞きました。しかし、表沙汰にはなりませんがね」
表情が変わった。こわばっている。それで彼は溜飲を下げた。そこまでを知らない水城も目を見開いている。彼はこの情報を大学同期の副署長から、内密にと教えてもらったのだ。
「しかし、まさか…」と驚きが去らない義父を放って、彼はコーヒーを飲んだ。
煙草に火を点けるとき、
「とんだ鬼女だった訳か。理由は何だ。わしが引っ張ってきた女優の髪を切るにも、理由があるだろう」
それに彼はどう答えてよいやら、ちょっと迷った。彼女との仲を義父に打ち明けることが、彼女の利になるのか、それがわからなかった。何を言っても「わしが引っ張ってきた女優を」と罵られるだけだが。
煙草を吸い黙る彼へ、英介が「お前、あの子に手を出したな? 孕ませたのか? どうだ、図星だろう」
「とんでもない。お父さんの引っ張ってきた女優にそんなことはしませんよ。ただ、紫織さんとのことも片付いたし、そういう仲にはなろうと思っています」
英介は彼の答えを浅く頷きながら聞き、ようやくコーヒーに口をつける。
「真澄、婚約が破談になってよかったな。結婚でもしていたら、寝てる最中、嫉妬に狂った鬼女様に、お前のアレを庭師のはさみでちょん切られたぞ。はははは」
いつか見た大ぶりな剪定ばさみの、ぱちんとよく鳴る音を思い出し、一瞬背筋がぞっとした。笑い事ではない。
「お父さん、水城君もいます。そういう発言は…」
「いえ、ご遠慮なく。若くはありませんから、耳も心もタフになっておりますわ」
きれいに流して彼女が去った。義父も去ればいいのに、どっかり社長のデスクを陣取ったままだ。
どさくさに、彼女とのことを打ち明けてしまったが、馬鹿話をしただけで、それに反対らしい意見もなかったのは意外だった。義父なりに今回の婚約解消に懲りて、彼へ権門令嬢をあてがうことをあきらめたのだろうか。もしかすると、「わしが引っ張ってきた女優」を、これで気に入っているのかもしれない。




           

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