Daddy Long Legs
7
 
 
 
本公演を彼は見られなかった。代わりに紫のバラを贈った。これを贈り続けたその精華のようで、メッセージを書きながら感慨深かった。
彼女とは、渡した新しいケイタイでのメールのやり取りがまた始まっていた。簡単なメールが主だが、紫織との婚約の破棄を伝えたときは電話で話した。
『ごめんなさい…』
「どうして? 俺は君と不倫はしたくない。ちょん切られるのも絶対にごめんだ」
『え、ちょん切る? 何を?」
「いや…、何でもない。信じて待ってくれてありがとう」
泣き出す彼女から『嬉しい』と言う言葉を引き出した。その一言で、費やした彼のすべてが溶けていくように感じた。これを聞きたかったのだ、と、芯から思う。
以前のように「写真を送ってほしい」と言った。
『泣いた後だから嫌』
その日送らなかった代わりに、翌日きれいに撮れたものが送られてきた。人に撮ってもらったようだ。件名は『白身魚のピカタ』だ。楽屋での食事中のもので、彼女の前に食べかけの白身魚のピカタらしい弁当が写っていた。その隣にも同じ箱がある。
(二つも食べるのか?)
添えた本文に『堀口さんが頑張って、お弁当二つもらってくれました!(^^)!。夜に食べます!』とある。そんなことでマネージャーを頑張らせるな、とおかしいが、元気なのがわかり、彼の気も和んだ。
義父は「子ザル」と評したが、潔いショートカットは以前の彼女より垢ぬけて見えた。すっきりと首筋が見え、薄く化粧をした顔は快活にもまたちょっと大人びても感じられる。触れて指に絡められないのは寂しいが、可愛いしよく似合うと思うのだ。
『可愛いよ、ウリボウみたいで』
そう返した。送ってから、義父と大差ないと悔やんだが、もう遅い。案の定彼女からは、ぷりぷり怒った返事が来た。
『どうせウリボウですよー! 黒沼先生も「サル」って笑うし、おじさんって感覚が一緒!』
なだめるのに手こずり、結局時間を工面し、彼女の稽古帰り待ち伏せた。驚かせてから、以前買ったきりで渡せずにいたネックレスを贈る。「あ、物で黙らせるんだ。やくざのやり口!」と、どこで覚えたのか生意気なことを言う。それでも嬉しそうにしてくれた。
それは贈り物より、彼と会えたそのサプライズに感激しているのがわかる。それが彼に言葉を失わせる。つくづくと愛しいと思った。
食事をし、少し歩いてから自宅まで送り、それで別れた。連れ立って過ごす二人の時間は、互いに照れ臭く、ぎごちないが、満ち足りた思いが胸にあふれた。
「今度会えるの、いつかな?」
別れ際、抱きしめた彼女がつぶやく。婚約は解消したが、鷹宮家への儀礼的な意味を含め、すぐに彼女とのスキャンダルは避けたい。あり得ないとは思うが、噂が立てば、またあの人を刺激することになるのではと、それも彼は恐れていた。
「また社長室に乗り込んでくればいい。歓迎するよ」
「意地悪! そんな恥ずかしことできないもん」
「大人になったな、ちびちゃん」
「もうとっくに大人です。選挙にだって行けるんです。行ってないけど…」
「行けよ」
物足りないが、我慢のできない切なさではない。指を絡めて、次を約束することができる。
 
睡眠不足や疲労が原因か、体調が悪くなる原因はあった。それでもやり過ごした。乗り越えたあれこれに比べれば、個人で我慢の効く気だるさなど、どうでもよかった。
無理に無理を重ねた意識は彼にはない。あまりに疲れた午後、少し休むとソファに横になり、意識が遠のいた。
どれほどか後、がやがや周囲がうるさく、目が覚めた。身体を起こそうとするが、全身が重く、関節のぎょっとする痛みに顔をしかめた。
首だけ回して周りを見た。秘書の水城が別の社員に指示をしていた。ドアが開く音がし、「水城さん、到着しました。今下にいます」
何をしているのだろう。頭がぼんやりし、上手く働かない。
そのとき、水城が彼の側に来た。屈んで、
「気がつかれました? すぐ救急車が参りますから」
「は?」
「意識を失っていらっしゃったんです。ひどい高熱で。何の応答もなさらないから、肝を冷やしましたわ」
「俺が?」
声が出にくい。展開に面食らう。間もなくストレッチャーを担いだ救急隊員が到着した。彼の首元を緩め、ソファから身体をストレッチャーに移動させる。酸素マスクまで装着され、社長室を運び出されながら、何のどっきりかとあ然とした。
救急車の中で、隊員が病院へ連絡するのが聞こえた。「三十三歳男性、意識に混濁あり。血圧115、85。体温39.8度。脱水が見られます…」
それを聞きながら、ふっとまた意識が遠のく。
気づけば、病院のベッドで寝かされていた。医師に診断で肺炎と聞く。冗談だろ、と笑いたくなった。栄養状態も悪く、点滴を受けて二日は入院が必要と言われた。その後も出社など厳禁で、自宅療養が一週間は必要という。
急ぐものはなかったか、と熱でぼんやりとする頭を動かすが、それらしいものはなかったはず…。どのみち緊急の案件があったとしても、こんな状態じゃどうにもならない。あきらめて天井を見上げた。
処置が終わってほどなく、秘書の水城が現れた。状況は医師から聞いたようで、入院から退院後の自宅療養中のことで、判断を仰ぎに来た。
要領よく話す彼女の問いに、彼は頷いたり首を振る。それで短い打ち合わせは終わった。最後に、
「では、他と同じに、マヤちゃんにも入院は伏せますか?」
それに頷いた。
水城が帰り、薬のせいで眠くなる。ほとんどを寝て過ごし、発熱が安定した翌日は、ついでにと勧められた検査を受けた。数時間置きに血液を抜かれるのには、閉口する。
検査結果を待つ間に寝てしまっていた。いつしか水城が来ていたようで、ベッドの脇に社用の封筒が置かれ、付箋にメモ書きがある。「退屈でしょうから、お暇つぶしにどうぞ」とある。中には雑誌が数冊。
いつも読む経済誌の新しいのが二冊。それに週刊誌が二冊ある。経済紙をざっと眺めて、週刊誌に移った。一つは派手な表紙の女性向のもので、何の冗談かと訝しむ。別のものを開き、目次からタイトルをさらった。
大きな扱いで、彼のことが書かれていた。鷹宮家と婚約破談に至った経緯を扱っている。該当記事には、読者の興味をあおるよう扇情的に彼の出自のことから、ねっちり書いてある。それはもう見飽きたものだが、目新しいのに、彼の性的異常性を挙げ、また鷹宮家の使用人女性とのただれた関係にも触れていた。
「変態的性愛嗜好者」である彼の性向の一例には、赤ちゃんプレイがあると書いてある。
記事の締めには、『下半身の暴走で、逃がした魚(紫織のこと)は大きかった。大き過ぎるその代償には及ぶべくもないが、せめてもの慰めに、氏には哺乳瓶でも贈りたいところである』とあった。
さすがに呆れて、声もなかった。
しかし、この攻め口は、彼には思いつけなかったもので、よくも穿ったところ突いたものだと、腹立ちより先に感嘆が出た。水城はこれを見せたかったのだ。
ソースも不明で、完全に名誉棄損のこれほど悪質な記事を堂々とぶち上げるのは、それを書かせた者がいるということだ。記憶を探らなくとも、あの女性が浮かんだ。
醜聞の火種は彼が点けた。せいぜい燃えたそれが鎮火しかけた今頃、残り火に便乗し、新たな火種を投げ入れた。
権高なあの女性の誇りを、最後の対面で十分傷つけたと、彼には自覚がある。そのため、鷹宮家が彼とは縁を切った今、こんな報復をしてくるのだ。娘がしでかした犯罪を権力でもみ消しておきながら、己のプライドの修復にはこんなにも忙しのだ。
物理的なものがあるのなら対応は別だが、この程度のものであの女性の胸がすくというのなら、
(お好きにどうぞ)
そんな気分である。
もう一冊を広げる。こっちもその手の記事が載るのかと思った。が、悪い意味で期待が外れ、彼は苦い顔になった。
彼女のスキャンダルである。相手はテレビで共演した、女性の人気が高い若手俳優だ。二人が寄り添い、ちょうどどこかの店に入るところが一枚。別の写真は食事のシーンで、男が彼女に飲み物を手渡している。
客観視すれば、どうと言うことのない写真だ。それを記事が熱っぽく『天女さまの新たな恋!』と強引に書き上げている。すっかすかで読むのが馬鹿らしい内容だが、目が離れず、彼は全部読んだ。
読んでから、ぽいっとそれを向こうのローテーブルに投げた。肺炎のせいもあるが、気持ちが萎え落ち込んだ。記事そのものは信憑性も薄く、信じるに足らない。それでも滅入るのは、写真の二人がよく似合っていたからだ。
年の頃もつり合い、眺めて雰囲気がいいのだ。翻って自分と彼女は、と思う。彼女がちょっと幼く見えるのもあるが、場所が悪ければ警官に職務質問されるのでは、と自虐的になる。
(あの俳優は、肺炎なんかで救急車に運ばれないだろうし…)
水城は何でこんなものを見せるんだ、といら立った。どうせ、記事を見て、ショックを受ける自分を面白がっているのだろう。
全部を肺炎と秘書のせいにして、ふてくされた気分に浸った。
ちなみに、検査の結果は良好だった。なのに、説明に来た医師がひっそりと、「循環器系以外の検査をお勧めします」と、彼の目をのぞくように言うので不審だった。
「はい?」
「プライバシーは十分に考慮しますからご安心下さい」
「何の検査のことを言っているんですか?」
彼の質問をはぐらかすように、「自覚症状がなくとも、早めの発見と治療が肝要ですよ。男性不妊の原因としてもクラミジアは注目されています」
「けっ」と口の中で吐き捨てた。この医者は「変態的性愛嗜好云々」の例の記事をとっくり読んだのだろう。馬鹿らしくなり、さすがに腹も立つ。むっつりと「必要ありません」とだけ返した。
(踏んだり蹴ったりだ)




           

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