Daddy Long Legs
8
 
 
 
彼女が彼の病気のことを聞いたのは、既に退院し自宅療養中のことだった。教えたのはマネージャーの堀口で、「知らなかった」と動揺する彼女に、社長から伏せるよう指示があったと説明した。
「どうしよう」
マネージャーに促され、雑誌の取材に向かいながら、彼女はうろたえている。その彼女へ、「もうだいぶいいみたいだよ。社長室で倒れて、救急車で運ばれたときは、車内が騒然としてね、僕もびっくりしたよ。でも、忙しい人だから、こんなことでもないと休めないだろうからね。社長にはお気の毒だけど、却って休めてよかったんじゃないかな」
「救急車!」
と唇に手を当て絶句したが、「わたし、乗ったことない」とぽろりと言い、マネージャーを笑わせた。ともかく、水城から託された彼の伝言を彼女に伝える。
それは、彼女の時間がいいとき、会いに来てほしいというものだった。「話がある」と。
「え」
表情が少し強ばった。病気や救急車で悪い連想が走った。それではなくとも、あの元の婚約者のことでは…。
それに堀口が、「悪い話じゃないよ、きっと。水城さんもそう言っていたし」と、言い添えた。
取材の後は、今度迎える舞台の衣装合わせが入っていた。その後は稽古が続く。終るのは、夜になってしまう。この日は無理なようだ。充実した毎日を送るが、このときばかりは、『紅天女』に決まる前のように、気ままに時間の持てないことが、歯がゆく思える。
彼から「会いに来てほしい」と告げられるのは、初めてだった。緊張で気持ちが騒ぐのは、このことが、自分と彼との大きな変化に感じられるからだ。
マネージャーに訊き、明日なら時間があると教えてもらい、心を決めた。
明日彼に会いに行こう。それだけで、胸が鳴る。
会いに行くのだ。心に繰り返す。
(紫のバラの人に、わたしは会いに行く)
 
 
仕事もなく、誰にも会わずにいられる休暇のような日々を、彼はすぐにうんざりすると思った。所在なく手持無沙汰で、止められた酒や煙草に手が出るのは、そう遅くもないだろう、と。
しかし、スーツを着ずにラフな格好で、日がな一日のんびりするのは、悪くないと感じ出した。いい機会で、彼女の作品で目を通していないものを観た。居間は見舞いの花々があふれ、花屋のようになっている。花の匂いがきつくなると自室に移り、そこで見た。
幾つかの後で、この四月にテレビで流れたドラマを見た。某テレビ局の開局〜周年を祝う記念作で、役者に演出にとふんだんに金をかけた大作である。戦国時代が舞台で、それに彼女は織田信長の妹お市の方を演じた。
意外なキャスティングだった。多くの美人女優が演じ尽した感のあるあの役を、彼女がどう演じたのか興味深い。この役に彼女を押し込んだのは、彼の義父の英介だ。大都に所属した『紅天女』の後の第一作となる。そのイメージを崩さぬよう、かつ引きずり過ぎないよう、配役には義父の配慮がうかがえた。
出番は多くないが、物語のキーマンとも言える重要な役どころだ。美人と誉れの高いかの人を、彼女は可憐に演じていた。どう役を解釈したのか、戦国の貴婦人は純粋で真っ直ぐで、その全身から匂うような愛らしさと親しみがあふれていた。
そういうアプローチをした女優はこれまでいなかったかもしれない。夫を信じる強さと殉じようとする健気さは、いじらしい所作や表情で表され、そこに初めて迷いのないお市の方の気高さを印象付ける…。
彼女が現れると、画面がぱっと華やぎ、シーンの奥行きがぐっと深く感じられた。こういった存在感のある名優を彼は幾人か知るが、確実に彼女はその数少ない一人と言えた。可哀そうなのは、夫役の若い俳優で、隔絶した演技力の差にすっかり位負けして見えることだ。
この役を彼女に押し付けた義父の目は、確かだったようだ。間違いなく当たり役だった。今回のお市の方は、彼女がかつて演じた『二人の王女』のアルディス姫に近い、と彼は思った。多分彼女は、あの役に似たものをお市の方にも持ったのかもしれない。
当時、アルディスを演じることに決まった彼女を、月影千草は否定的な周囲を意に介さず、「マヤにはその資質がある」と告げた。
(確かに)
と、こんな後になってその言葉の意味がわかる。アルディスと今回演じた彼女のお市の方。そこに共通するものを、演じる彼女も持っているのだ。どんな役の仮面でも、彼女は巧みに被ってしまうが、一番やり易いのは、こういった役柄のはずだ。地で演じることが可能だから…。
このドラマを終えて、すぐに義父は彼女へ次の舞台をあてがっている。著名な文芸作品で、彼女はそこである令嬢を演じることが決まっている。そののちには、今度は映画で、有名小説をベースに、幕末期の芸妓を演じるのだとか…。
一役入魂タイプの彼女には、スパンが短く、荷が勝ち過ぎていないか、と気になる。それもじかに聞いてみたい。
腕には時計がない。飾り棚のを見れば、そろそろ彼女が来ると言った時間になっている。
この日、彼は彼女に自分が紫のバラの人であることを告白するつもりでいる。長くそれはできなかった。自分などが、彼女が敬愛し大事に胸に抱く人物であってはいけないと、思い続けてきた。彼女の夢を壊せば、紫のバラを通してのみつながっていられた、その手段すらも失ってしまう、それが怖かった。
しかし、気持ちが通い、彼女は『紅天女』を見事手中にし、彼は婚約を解消し自由になった。もう、下らない思い込みは捨てたい。彼女に、自分と紫のバラの人を重ねて見てほしいと思った。彼が彼女に真の気持ちを込め贈り続けた年月は、絶対に揺らがないのだから。
実は、彼は彼女が既に気づいているのでは、と感じてもいた。彼女が口にしたことはない。しかし、どうしても思う。彼女の自分を見る目、そして、あれほど嫌った自分を受け入れてくれたその翻意の理由には、それが大きいと。そして、彼女は紫のバラの人について、長く話をしていない…。
現れた彼女は、ギンガムチェックのブラウスに、ミニスカートを着ていた。外は暖かいらしい。熱を出し肺炎を患う彼にはうすら寒いほどなのに。
さっき見た彼女のお市の方が、気さくで可憐な装いで、ふっと飛び出してきたかの錯覚を感じる。「よかったよ」と感想を言えば、「ありがとうございます…」ともじもじ答える。そして、あ、と手を打ち、
「速水さん、病気なんでしょう。びっくりしました。救急車に乗ったなんて、初めて聞いて…」
おいで、と手を伸ばせば、彼の隣りにちょこんと掛けた。Tシャツにスウェットで厚手のカーディガンを着ている。そんなごくラフな格好の彼にどぎまぎしているかのようだ。
彼は人を呼んでお茶を用意させた。
「大丈夫なんですか?」
と彼の額に触れた。「何か熱い気がする。熱があるんでしょ?」
それに答えず、届いたお茶とお菓子を勧めた。
「忙しくてやりにくいのなら、仕事は断っていい。君が父に言いにくければ、俺から言ってやる」
「あの、話って、それですか? 大丈夫です」
なぜか安心したように、お茶のカップを手に取った。急いで飲んだのか熱さに顔をしかめ、
「色んな役をやりたいからいいんです。『紅天女』って、ゴールだと思ってこれまで来たけど、ああ、違うなって最近感じ出して…」
彼女は『紅天女』をスタートだと思うという。
「だから、あれに縛られずに、色んな役をやりたいんです。会長さんが選んでくれるっていうから、お任せしてます。わたし、大都芸能の出戻りで新入りなのに生意気ですね」
彼女の考えがわかり、それが案外しっかりしたものであるのに驚いた。彼女なりにこれまでの経験は経験として活かしつつ、『紅天女』を目指すためにあったその全てに、一度リセットをかけたいのかもしれない。それは同時に、獲った感激も栄誉も、彼女にはもう無駄だと表明していることにもなる…。
そういう考えがあるのなら、彼は引くしかない。「無茶はするなよ」と言うに留めた。
先のお市の方の配役で感じたが、義父の役の選択眼は確かなようだ。自分のそれより、数枚上とも思う。一々頭越しに、何でも采配を振るわれるのは癪だが、当の彼女が承諾しているのであれば、それもいい。
そして、彼女には何がしかの覚悟が感じられた。新たにスタートを切りたいと望む『紅天女』までの彼女のこれまでの道程は、彼の紫のバラの人としてのそれとぴたりと合わさってしまうのだ。
やはり彼女は、
(知っている)
彼ははっきりと確信を持った。




           

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